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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

武田教授

2019-11-11 11:39:36 | 文化
>335145 武田教授が指摘、自分と意見が違う人を友人にしない日本人の悪癖
>惻隠之心 ( 62 会社員 ) 18/04/26 PM05 【印刷用へ】
>私たち日本人が同じ育ちで同じ考えの人とばかり群れる悪い傾向について、「一生を通じて見ると大きな損害だ」と厳しい口調で指摘しています。
>mag2ニュースより以下引用です
>リンク
>同じ情報、同じ経験をしていても、人によって意見が大幅に違うのはなぜか

それは、個性の違いによるものでしょう。

>現代はバッシングの時代ともいえる。>これまで社会に対して発信する手段のなかった人たちが、ネットができたことによって世界中に自分の考えを知らせることができるようになったのだから、それは大変なことだ。

そうですね。

>事実、全く無名の人でも、もし面白い動画を出せば、時に何100万人という視聴者を獲得できるのだから、別の世界に入ったようなものだ。
>いいことには必ず悪いことがいくらかは付きまとう。

表裏一体ですね。

>「誰でも自由に発信できる」という権利を得たのだから、それに伴う苦痛とか義務を考えておかなければならない。>ネット社会が発達すると社会全体が狭くなり、かなり前に自分が発信したことがブーメラン化して、自分に突き刺さってくる可能性が高くなるからだ。>そしてネットは場所を変えても追ってくるので逃げにくい。> 今シリーズでは、人間の大脳と本能の関係、思考回路と先入観の関係、意見を決める順序を整理し、自分の発信が将来の禍根にならないようにする方法を探ってきた。

それは有益な方法ですね。

>今回は自分の考えを決めるためにどうしても必要なこと、「知識と議論」について考えてみたいと思う。> 人間は人によって考えが違うものだ。

そうですね。

>当然のようにも思えるが、じっくり考えると奇妙だ。
>もし、NHKが正しく、かつ日本国民が知らなければならない情報を放送してくれたとすれば、日本人全員が同じ知識を持つのだから、ほとんど同じ意見になるはずである。

NHKによる情報操作で、一億人が間違った判断をすることもあるでしょうね。

>「事実」が同じで、「整理」も同じなら、そこから推論される「結果」もほぼ似てくるだろう。

以前には、’日本は必ず勝つ’ という結論もありましたね。

>それにNHKはすでに70年以上も続いているので、先入観という意味でもかなりの部分を占めるはずなのである。>でも、これほど意見の違う人が多いのはなぜだろうか?

それは、人の意見は様々だからでしょう。

> それは、個人個人が「いい加減に意見を作る」からに他ならない。 >人間は即断即決しがちであり、かつ知らず知らずに自分の都合の良いことを正しいと思いがちである。

それは、有りますね。

>だから、同じ情報、同じ経験をしていても意見が大幅に違うものである。>ということは、将来に禍根を残すことを発信しないようにするためには、「即断即決してすぐ発信するのではなく、いったん立ち止まる」こと、「自分だけが考えると自分勝手になるので、人に考えを聞くこと」が必要であることがわかる。

そうですね。人の意見は様々ですからね。

>つまり、「発信しようとしていることに関する知識をもう一度、ネットや本で得ること」と、「友人などと話をして人の考えに接すること(できるだけ自分と違う考えの人が良い)」が必須であることがわかる。

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。楽ちんである。考える必要がない。現実の内容の正解は一つに限られている。もしも、事実の内容が個人個人で違っていれば、事実関係調べをして唯一の正解を求める努力をしなければならない。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その内容を了解するためには、その文章を文法に従って理解しなくてはならない。それは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は、通常これをやらない。
日本人は、理解の代わりに忖度 (推察) を使う。しかし、忖度と理解は似て非なるものであるから要注意である。忖度は、聞き手 (受け手) の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。だから、トラブルになっても議論にもならない。忖度が現実直視になっていないことを忖度の主に指摘すると、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発し、一向に反省の余地を見せない。だから、忖度の内容は、歌詠みのようなものである。独りよがりである。理解の代わりなどにはならない。 
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを示している。考えは、人様々である。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えとなる。矛盾を取り除くには、対話・議論が役に立つ。だから、これらの手段を大いに活用すべきである。

(略)


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集団主義

2019-11-11 01:06:12 | 文化

>民主主義と市民運動の正体 >350969 現代の日本人に『集団主義』の国民性はあるのか >匿名希望 ( 25 会社員 ) 19/11/10 PM05 > 集団主義であり、団結力が強いと言われる日本人ですが海外と比較すると本当に集団主義が強いのか。 >現代の日本ではかつての集団性や他人への意識が薄れているようにも感じます。
>-------------------------------------以下、引用-------------------------------------
>日本人は「集団主義」の国民性である、という自己認識はどうも誤解のようです。

そうですね。あなたは誤解しているでしょうね。日本人は、無哲学・能天気の国民ですから、一人一人は集団についていかなくてはなりませんからね。我が国民の集団主義は、そのことを指しているのでしょう。

>米国の文化の中で育った人間からすると、組織より個人を優先させる傾向は、欧米人より日本人の方が強いと感じることがあります。

わが国の利己主義は、わが国民の処世術に具体化されていますね。

> 日本人の間に、「個人主義」という言葉が流行したと聞いて驚いたことがありました。

わが国では、’個人主義’ という言葉が独り歩きをしていますね。それは、’ハイウエイ’ (highway: 公道) という言葉の一人歩きのようなものです。

>その時の話の流れは確かこうです。>「日本人の残業が多いのはなぜ?」と私が聞き、ある日本人は「上司や同僚の仕事が終わらない間は帰りにくい雰囲気がある」と答えました。

個人差を際立たせることは、わが国のような序列社会においては自己に有利に働きますからね。日本人の礼儀作法のようなものかもしれませんね。

>私は重ねて聞きます。>「じゃあ先に仕事を終えた人がまだ終わってない人を手伝えば良いのでは?」と。>その日本人は「自分の割り当てではない仕事を手伝う例はほとんどない」と言いました。

仕事量は、個人個人に定められていますね。利益の観点からすれば、’自分は自分、他人は他人’ です。

>なぜなら個人主義が浸透しているからで、しかもその個人主義の文化は「欧米にならって始まった」そうです。

昔は、得られた利益は皆のものと考えられていました。今は、利益は個人個人に振り分けられていますね。個人タクシーのようなものです。

> 私はいろいろおかしいぞ、と思いました。>まず、欧米の職場には日本人が言うところの「個人主義」なんていうものは存在しません。

そうですね。東は東、西は西’ ですね。日本人には、個人主義と利己主義の区別が難しいですからね。日本語の文法には Person (人称) というものがないので、日本人は個人を包括的に考えることが難しいですね。

>成功している組織では、先に仕事を終えた人間は自然と同僚を手伝います。

そうですね。人間は、お互いに助け合って生きるものでしょう。

>仕事の遅れには必ず原因があります。>仕事の分配量に誤りがあるか想定外のトラブルが発生しているかです。>当事者が解決できない問題であれば、周囲の人間が助けなければと考えるのが、チームワークを重視する欧米人の感覚なのでしょう。

そうですね。団体戦は、日本人に向いていませんね。合戦には、いつも先陣争いに熱が入ります。

>どうも日本人が使う「個人主義」は、困っている人を放置してそれで良しとする「selfish(利己的)」に意味合いが近いように感じられます。

そうですね。日本人の個人に対する考え方は、競争・勝負としての単位ですからね。団体戦でない個人戦ですからね。相撲のようなものです。人々は、’東が勝ったか西が勝ったか’ には熱中しない。他人が困っているのは自業自得によるものとみなされていますね。

>本来、英語で言う「個人主義(individualism)」の意味とは、集団に所属する一員としての役割や権利を相互に尊重しあう立場のことで、「私利」が「他利」に優先されるというワガママを容認してしまっては成り立たない概念なのです。

そうですね。私利が他利に優先するのは、利己主義 (egotism) でしょうね。
日本人には意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思は未来時制の文章内容で意味がある。だから議論になる。恣意は文章にならないので意味がない。議論にならないので談合をする。これは腹の探り合いである。この話し合いは、概念の枠を超えている。高文脈文化の習慣は生きている。



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