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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

武田邦彦氏 3/3

2019-11-29 00:41:19 | 文化

>もともと「戦争をする」という重要な事をお上が決めたとき、それすら十分な検討はなかったからです。

日本人とっては、検討という仕事は難しいですからね。

> 増税の問題に象徴されるように、権力は常に民主主義の敵であり、それに対する警戒心と、自立の心を持つことが求められるのに、小さくはエコポイントから禁煙運動、クールビズ、節電まですべてのことをお上からの指令で動く社会ができあがっています.

声なき国民は待ちの姿勢ですね。

> 安保条約締結の時、民主主義の危機が来たと感じた日本人は正常だったのでしょう。>今では「減税公約、増税実施」について民主主義の危機と感じる日本人が少なくなりました。>どこに丸山真男の弟子が居るのでしょうか?

彼の影響力は微々たるものでしたね。

> 丸山真男の領域では、思想は思想だけでは意味が無いだけではなく、それが社会的運動までには発展しなくても少なくとも論壇では大いに語られ、それが社会に影響を及ぼさなければ何の意味もありません.

日本人には意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人は、仕方がないから無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱。

>東大には法学部があるのか、政治学者が存在するのかと疑わしくなります.

政治に関する考えは、政治哲学になる。日本人は、思考を停止している。だから、日本人には政治哲学がない。

>このような現状を考えると、日本には「政治学」というのは無いのではないかと思います。

政治学は、政治哲学に関する究明ですね。それはわが国では想定外になっています。日本人は、無哲学・能天気だからです。

>学問というのは積み重ねていくものですから、丸山真男ぐらいの人が体系化し、打ち立てた「日本の政治学の基本」は事態の変化によって容易には変わらないはずですし、現代の東大の政治学、日本の中枢の政治学が彼の学問から大きく変化しているなら、政治学という名前を使わずに「政治評論」と呼ぶべきでしょう。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

> 現代の東大教授がくずれたのは、ヨーロッパのワインを飲みたいこと、勲章をもらいたいからとは思いますが、丸山は戦争中、すでに大学の教員だったときに召集令状が来ても、将校になるのを断り二等兵として出征し脚気にかかりました。

丸山真男は信念の人ですね。

>我が身より魂を大切にするその思想的一貫性を思い出して欲しいものです。

理想と現実の間の葛藤が人生ですね。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)
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>以上です。


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武田邦彦氏 2/3

2019-11-29 00:22:51 | 文化

> 先日、私が戸塚宏先生の講演をまとめたものをブログに書きました。>それを「良心的」な読者の方が読まれて、「武田は戸塚先生と同じ意見か?」というメールをいただきましたが、私は繰り返し「戸塚先生とは考えが違うが」と断っています。>でも、読者の方が錯覚されるのは当然で、現代の日本では「意見の違う他人の言うことに耳を傾ける」という人はほとんどいないからです。

そうですね。それでは議論になりませんね。

> 時に、私は「二重人格者」と呼ばれます。>それは「自分と違う意見の人の考えを理解する」という行動を取るからです。

そうですね。現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。だから、楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。これは見ることができない。ただの話である。その話を了解する為には文法に従って文章内容を理解しなくてはならない。それは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解を避けて通る。理解の代わりに忖度 (推察) を使う。忖度は理解と似ていて非なるものである。だから注意しなくてはならない。忖度の内容は、聞き手の勝手な解釈であり現実直視になっていない。だから、話者には何の責任もない。議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に話すと、かれは、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発を示すので取りつく島は無い。だから、結果は歌詠みになる。

>理解するというのは自分が同じ意見だということではなく、相手の言っていることを理解するということだけなのですが。

そうですね。カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

>「人の話を聞かない日本」なのですが、それにも方向性があります。> 「お上が言ったことが本流であり、それに反する意見を言う人は非国民だ」という感情は日本に強く残っています。>そして意見を聞かずにバッシングする、これこそ丸山真男が批判したことでもあります。

わが国は、序列社会の国ですからね。寄らば大樹の陰’ ですね。


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