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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

恥の文化・感じる宗教 2/2

2019-11-30 09:30:26 | 文化

> 山折:それはやっぱり3つの問いにいくんですよ。>さっき宗教を信じるか信じないかという話が出ました。>やっぱり西洋の一神教的世界においては、神、あるいは神と類似のものを信じるか信じないかが重大な問題なのですが、多神教的世界における日本人にとっては、信じるか信じないかではなく、神々の気配を感じるか感じないか。>「感じる宗教」なのです。>「信じる宗教」と「感じる宗教」を分けて考えると、日本人の心のあり方がよく理解できる。

そうですね。日本人には意思 (will) がない。だが、恣意 (self-will) はある。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
意思は、未来時制の文章内容である。文章になるものには意味がある。意味のあるものは信じることができる。
恣意 (私意・我儘・身勝手) は、バラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままで文章にならない。文章にならないものには意味がない。意味のないものでも感じることはできる。
何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる (西行法師)

>山に入れば山の気を感じて、そのかなたに先祖を感じたり、神々や仏たちを感じたりする。>お守りをズタズタに切ることができないというのは、たたりがあるという深い深層心理が働くからでね。> 何か悪いことが現実に起こると、それは何ものかのたたりだと。>神々のたたりだ、死んだ人のたたりだ、生きている人間の怨念がたたりになる。>それを気配として感じる。

日本人には罰が無くて、祟りがある。罰は理性的で、祟りは感情的ですね。罰則はあっても祟り則はない。

>そういう鋭敏な感覚が、逆にわれわれを育ててきた。>気配の文化と言っていいかもしれない。

得体のしれないものですね。つかみどころのないものですね。非言語の世界ですね。アニマルの世界か。

>それが日本人の宗教感覚、宗教意識なんだ。と、本当はこういう教え方をしなければならない。>それはもうすでに鈴木大拙が『日本的霊性』(岩波文庫)で言っている。>しかし、一神教的な宗教観念が先にポーンと出てくるから、それ以外は全部おかしいということになってしまう。

日本人は自己主張が足りないようですね。

>やっぱりわれわれ自身の文化、つまり、「自分とは何か?」を考えるための教養が、ものすごく必要だということです。>ここで教養が出てくるんだな。

そうですね。‘我々は何処から来たか’、’我々は何者であるか’、’我々はとこへ行くのか’ という哲学的命題は、我々にとって大切ですね。

> 上田:日本の宗教は牙を抜かれているところがあります。>たとえば仏教における「縁起」にしても、自分がどれだけ生かされているかを異常に強調します。

受け身専門の発想法ですね。

>たとえば日本仏教の最大教団である浄土真宗とかでも、親の恩徳、師主・知識の恩徳、如来大悲の恩徳、阿弥陀様の恩徳って、後ろからどれだけ私が恩を受けているのかを強調している。 >それはいいのだけど、その恩を受けている主体としての私はどう生きたらいいのかというと、明確な答えがない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。  
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日)
日本人には、精神主義・精神修養が必要でしょうかね。

>「その恩を感じながら、どんなことがあっても我慢して生きなさい。>我慢して生きるのはいいんだよ」みたいなノリで説かれることが多いわけです。 

そうですね。’不自由を常と思えば不足なし’ ですね。

> 「あなたも次の先祖になるのだから、未来の社会を切り開いていく責任があるんだ」というふうな、未来を創造していく主体の形成みたいなものにも結び付かない。

そうですね。非現実 (考え) の世界を切れ拓くには、それぞれに独立した非現実三世界 (過去・現在・未来) の内容が指針として必要ですね。

(略)


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恥の文化・感じる宗教 1/2

2019-11-30 09:05:04 | 文化

>ルース・ベネディクトが「日本は恥の文化」だと言った。>日本人の恥というのは、人の目だけではなくて、お天道様や御先祖様、そういう大きな世界からの視線の中での恥なのですね。> 単にヘンなことをして、人に見られて恥ずかしいというのではなくて、ご先祖様から生をいただいている私としたことが、こんなバカなことをしてしまって恥ずかしい。>つまり、誰も見ていないけれども、世界視線からは見られていて恥ずかしいことをしてしまったという、より大きな恥の感覚がある。

そうですね。それもあるでしょうね。しかし、’旅の恥はかき捨て’ の方が大きいのではありませんか。日本人にとって、人前で恥をかかせられることは一番恐ろしい。

>それがどんどん縮小していって、経済人や政治家までどんどん縮小していって、また団塊の世代というヤツらが縮小していった(笑)。
> 団塊の世代は本当に世界視線がないですよ。

日本人には世界観がない。非現実・考えの内容は時制のある文章内容として表現される。その内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) として表現される。これらの内容は、世界観 (world view) と呼ばれるものである。その三世界は生まれた時には白紙の状態である。だが、年を経るにしたがって誰しもその白紙の状態が気になるものである。そこで、各人がその内容を自主的に埋めて行くことになる。三世界の内容は、何処までも展開可能な状態になっている。思春期になると、言語能力が著しく発達するので、人は ‘考える人’ になる。英米人は英米流の高等教育機関に進学して、自己の世界観を完成する。その段階に従って学士・修士・博士の称号を得ている。自己の世界観の内容を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。
英語には時制があるから、英米人には世界観がある。自己の世界観に基づいて現実の内容を批判するので、批判精神がある。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。批判精神がない。自己の世界観に基づいて現実を批判することもない。大学に進学しても自己の哲学 (非現実の内容) は作れない。だから、四年間を遊んで過ごさなければならない。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>ほら、小学校に入ったときから60人学級とかに詰めこまれて、人口圧がむちゃくちゃあったから、人の目しか見えない。>団塊の世代の教授たちには、教授会の前の晩に作戦会議をやって多数派工作をしたりすることに燃えてる人も結構いますよ。>私の世代は恥ずかしくてそんなことできないけど。>要するに、多数派につくことが正義。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) 

>向こう側の神仏に見られている私の正義ではなくて、この100人の中でいかに多数派を取るかという、株主総会みたいな正義なのです(笑)。

衆愚政治ですね。

> 団塊の世代で大きな世界視線が失われてしまいましたが、今の子たちはもう一回それを回復する力があると私は思っています。>単線的な世界観がもう骨にも肉にも血にもなっちゃったのが団塊の世代だとすれば、今の子たちは日本が右肩上がりの状況を一度も知りませんから、逆に社会が複線であるということをわかってくれる素地がある。> 教育者や経済人も、早く団塊の世代に引退してもらって、より心のある人間がトップに立ったほうがいい。>でも、その後で今度はどういうビジョンが語れるのかが問題になってきます。

世界観のない日本人にビジョンを語らせるのは難しいでしょうね。歌詠みなら得意でしょうがね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」


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