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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

思考支配

2019-11-25 11:14:38 | 教育

>350826 上からの教育(学校)は、国家が与える宗教と同じで、支配体制を強化するために作られた。 >山田真寛 19/11/05 PM00 【印刷用へ】
>学校は役に立たないだけでなく、特権階級が主導する支配体制(それは、古代の力による支配と地続き)を強化するための道具に過ぎないのではないか。

そうですね。わが国においては、序列秩序が支配体制になっています。

> 古代、乾燥→飢餓により私権闘争が始まり、勝者が敗者の生殺与奪を握る「支配体制」が始まった。>この時代の「支配」とはわかりやすい。>勝者のいうことを聞かねば生きていけない、支配である。

本当に分かりやすいですね。アニマルでもわかる。

>しかし、そのような状態は、抵抗も大きく勝者側にも負担が大きい。

そうですね。平和が生活の安定には必要ですね。

>それで、敗者にも私権(土地など)というアメを分け与えていくことで、戦争しないでも支配できる体制、身分序列の体制が作られた。

そうですね。下々は敗者の礼が必要ですね。

>集団秩序や規範への収束も働いているので事を分かりにくくしているが、あくまで勝者が甘い汁を吸う「体制」を強化している。

そうですね。下の者ほど割が悪いのが世の常ですからね。

>さらに、大衆からも支持を得るため次に利用されたアメが、下層階級のよりどころだった「宗教」である。>当初、国家は脅威を感じ弾圧していたが、その後国家宗教として取り込んでいる。

現人神は実物で、大衆に分かりやすいですね。

>ここでも、人々の求めるものを利用しつつ、支配者に都合のよい体制を磐石なものにいている。>(農奴に心の平安は与えるが、吸い上げる対象のまま固定。)

日本人は、序列人間です。序列の中に自己を見つければ、それで心の安定を得られます。根無し草・非国民ではいけない。

>さて、学校教育が始まる1800年頃は、市場社会も深化し、産業革命を経て科学技術も進み、それらに対する期待から、キリスト教にかわる新しい認識や世界観を人々が一層求めていた時代である。

キリスト教は、’あるべき姿’ (things as they should be) の内容を説教します。’あるべき姿’ は、’今はない姿’ (things as they are not) であります。現実のその内容は、日本人に違和感を与えます。

> 日本でも寺子屋に見られるように、江戸の市場社会が進展したのに対応して新しい認識が強く求められるていた時代である。

‘あるべき姿’ の内容や世界観は、非現実の内容であるから、無哲学・能天気の日本人には、難解なものであったでしょうね。

>そのような人々の欠乏を利用しつつ、支配体制を強化するために作られたのが、上からの教育(学校)である。

序列体制は、日本人の望むところでありました。現在でも、序列社会の外に出ると日本人は協力体制を作ることができません。移民は棄民であったようです。

>人々の期待に応えると見せつつも、実態は工業社会の歯車としてしたてることが大きな目的であった。

富国強兵の為には序列協力が必要でしたね。

>このように、武力支配→身分序列支配→宗教共認支配→学校共認支配、の流れの中で捉えると、上から教える教育(学校)というものの性格がよく分かる。

そうですね。勝負による序列→身分による序列→神々と下々により成り立つ宗教→試験成績により成り立つ序列、の流れの中でとらえると、日本人の序列メンタリティ (考え) が良く分かります。

>どの段階でも、人々の欠乏を利用しつつ、根本的なところでは、支配者の都合のいいように体制を強化するためにあったのではないか。>(現代のマスコミも同様である)。

日本人は、自己の序列の存在を知れば、それで安心します。日本人は、一人ではいられない。既成の序列の間に自己の名を差し挟むことにより安堵します。だから、個人主義がわが国では成り立ちません。

>しかも手口はどんどん巧妙になってきている。> 「支配」を古い見方から更新できず、マスコミ、学校による「支配」を見抜けないと、日本と言えども、じわじわとみんなの生活は苦しくなっていく。

そうですね。序列による不自由が見落とされていますね。

>(国全体でアメリカに貢物をさせられている。)

序列的見解によれば、アメリカは日本の ’あんにい’ (兄貴) にあたります。そう解釈して日本人は安心しています。もちろん、アメリカ人には、この解釈が通じていません。

>マスコミ、学校による思考支配からの脱却が焦点である。

そうですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が十分でないと日常の日本語会話にも差支えが生じます。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができないと礼儀正しい日本人にもなれません。序列なきところに日本人の礼儀なしです。そこで、’人を見損なってはいけない’ という想いが生じます。序列観念は高じて強迫観念の域に達していますから、日本人は、堅苦しい日常生活を送っています。’頑張って’、’ご苦労さん’とお互いに励まし合って暮らしています。



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学歴信仰

2019-11-25 02:43:24 | 教育
>日本の資本主義は、労働力の信用によって基礎付けられ、 労働力の信用は、学校制度への忠誠と信用として根拠付けられてきた。> 学校制度を支えたのは、学歴の価値に対する信仰であり、 学歴信仰を根拠付けたのが、受験制度である。

そうですね。日本人の序列信仰は、学歴という形式を通して達成されましたね。学歴を実現するためには、受験制度が欠かせません。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が十分でないと日常の日本語会話にも差支えが生じます。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができないと礼儀正しい日本人にもなれません。序列なきところに日本人の礼儀なし。そこで、人を見損なってはいけないという想いが生じます。序列観念は高じて、強迫観念の域に達していますから、日本人は、堅苦しい日常生活を送っています。’頑張って’、’ご苦労さん’ とお互いに励まし合って暮らしています。

>そして、受験制度が学生の価値を支配し、加えて日本人の価値観を深く支配してきた。

階称に基づく序列観念のために、日本人は序列の存在を知れば一も二も無くそれを肯定視し価値あるものと信じるように習慣づけられました。

>大学受験は落とすための試験である。

日本人の上下は勝負で決まります。分かりやすい。受験戦争は大切な勝負の機会です。手柄を立てるチャンスです。

> 誰もが大学を目指すようになると、試験を難しくして振るい落とすしかなくなる。

大学の数が足りなくなるのですね。

> 大学受験を繰り返すごとに、入試問題は奇妙に難解さを増していく。

序列争いは、激しくなるばかりですね。その価値に対する批判はありませんね。

>それに対応すべく、学校の勉強も、塾の補習も受験に照準を絞らざるを得なくなる。

そうですね。勉強も補修も受験 (序列争い) に照準を絞らざるを得ませんね。教育者にも批判精神はありませんね。

>そして、受験にしか役に立たない知識の習得が学校での役割となっていく。

序列社会における処世術の極みですね。

>かくして、家庭も学校も塾も大学受験に成功することが最大課題とばかりに収束していく。

序列社会における家庭・学校・塾の最大の関心事は受験に成功することですね。

>その結果、大学ランキング、合格率の高い高校ランキングなど序列ができてくるが、 卒業することに全く意味の無い大学は、当然のように実社会からは全く相手にされない。

序列争いの激しいところでは、大学のランキングが役に立ちます。

>全ては、受験制度という一点において、大きく狂っている。

受験制度は、人間序列を作る為にしか役立たない制度ですね。

> 受験制度によって作り出される学歴信仰も、空虚な幻想に過ぎない。

わが国は、日本語の階称に基づく序列社会で成り立っていますからね。それは幻想ではなく現実です。

> 空虚な受験制度に振り回される子ども達の悲鳴はとうに限界に達している。

それがどうした。(So what?)
日本人には、批判精神 (critical thinking) がない。
批判精神は、’あるべき姿’ (things as they should be) と ‘今ある姿’ (things as they are) の内容を比較することにより論じることが可能になります。
‘あるべき姿’ は、時制 (tense) のある文章内容として表現されます。ところが、日本語文法には時制というものがないので、あるべき姿は表現できない。つまり、あるべき姿は、日本人の想定外になっているのです。だから、日本人には、批判精神がない。’それがどうした’ の問いに答えが出ない。それで、我々日本人は ‘思慮のない人間’ であることが知られてしまう。自己主張ができない。いつも、控えめにしていなければならない。おとなしいばかりが良いわけではない。この辺で、我々日本人は、立ち上がる必要がある。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解しなくてはならない。英米人は日本語を話す時でも、日本語に起因する閉塞感に苦しむことはない。考え方はいくらでもあるからである。われわれも彼らに従って、考え方を増やさなくてはならない。さすれば、序列社会の難局を脱することができる。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)



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