>AERA dot. >「『最終学歴はアメリカ』は亡国の兆し」内田樹 >内田樹の意見・ >2時間・
> 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。
>時事問題に、批評的視点からアプローチします。
>* * *
> 自民党総裁選の候補者9人のうち6人の最終学歴がアメリカの大学または大学院だということに気がついた。
>なるほど、今の日本の政治エリートは「最終学歴はアメリカ」がデフォルトになったのだと知った。
>富裕層では、中等教育からの海外留学がもうふつうである。
> どこで高等教育を受けようと、個人の自由だ。
>他人が口を出すことじゃないと言う人がいるかもしれない。
>せっかく海外で質の高い教育が受けられるのに、何が悲しくて質の低い日本の大学に行かなければならないのか、と。
そうですね。
>だがこれは「高等教育のアウトソーシング」であり、それが意味するのは「高等教育の空洞化」である。
英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに言語能力の発達する頃を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制 (tense) を活用して非現実の内容を文に表現する訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得させようとする仕組みである。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。
日本語は現実の内容だけを表す言語である。哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本式の判断だと、見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実ばかりの言葉 (日本語) を話す人が非現実の内容を語る学習をすると常に失敗する。嘘(きれいごと) ばかりを語っていては学習に力が入らない。非現実の内容の実感がない。だから思考停止になっている。それで日本人は相変わらず無哲学・能天気の民となっている。わが国の有権者はあらかた高等教育の真価を体得していない。だから高等教育の無償化には国民の総意が得られない。わが国は英米流の高等教育の導入に失敗し続けているので、何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制の下にある。個人の哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。彼等の出世は高等教育の賜物である。
> 国産の農作物よりも安くて質の良い農作物が海外から輸入できるなら、国内に農業がある必要がないというのと同じである。
>そのロジックが日本の農業の空洞化をもたらした。
農業は大切な産業ですね。日本人は農耕民族でしたね。
> だが、「グローバリスト」たちは「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で買える」わけではないということを忘れている。
それは大きな間違いですね。
>戦争でもパンデミックでも円安でも、「必要なもの」はいきなり入手不能になる。
そのようなものは戦略物資ですね。
>それはコロナの時の医療資源の枯渇で思い知ったはずではなかったか。
そうですね。
> 教育も医療もエネルギーも農作物も「それなしでは集団が生き延びてゆけないもの」である。
>そういうものは自給自足が原則である。
>たしかに困難な目標ではあるが、「それなしでは生きてゆけないもの」は自給自足を目指すべきなのだ。
そうですね。戦略物資は自給自足すべきですね。
> この四半世紀、日本の大学の学術的な生産力は目に見えて衰えた。
>為政者自身が日本の高等教育を世界最高レベルのものにして、子どもたちが海外に出る必要がなくなる日が来ることを別に願っていないのだから当たり前である。
それはやってみたが上手く行かなかったからでしょうね。
> ハーヴァード大学の学費は年額5万6550ドル(約800万円)である。
>生活費を入れて子ども一人に毎年1千万円仕送りできる家の子どもしかアイヴィー・リーグに留学できない。
それは ‘貧すれば鈍する’ ということでしょうね。
>それができる富裕層たちは「日本の大学のレベルがどうなろうと俺は知らんよ」と思うだろう。
日本の大学のレベルは ‘どうしようもない’ と思っているのでしょうね。
>そういう人たちが今教育政策を起案しているのである。
そうですね。国がひっくり返っても責任者一人出て来ない国ですからね。兎角この世は無責任。
‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
だから意思の無い国民の事後処理はうやむやになる。
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。
‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。
>亡国の兆しと言う他ない。
そうですね。わが国は衰退途上国ですね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。漢字書きの氏名は日本人の私であっても自信をもって読めない。これをローマ字書きにしてくれたら安心して読める。公文書のフリガナ欄を ‘振りローマ字’ 欄に変えるだけでも、それ相当の進歩に成りますね。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読める。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。
'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
日本人は思考を停止している。それで、自分自身の意見を持たない。マスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら情報を流しても、それが社会の木鐸 (世人を教え導く人) の役割を果すことはない。 ‘
‘それがどうした、それでどうした’ の問いに答えが出せない。我々日本人は自分自身の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから日本人は個人として価値が低い。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>※AERA 2024年10月7日号