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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

現場力  

2024-10-25 21:34:39 | 文化

>東洋経済オンライン   >日本の職場『縦割り』『分断』全然変わらない4理由 なぜ20年たっても変えることができないのか   >遠藤功の意見・   >3日・   

>経営コンサルタントとして50社を超える経営に関与し、300を超える現場を訪ね歩いてきた遠藤功氏。   

3617万部のロングセラー『現場力を鍛える』は、「現場力」という言葉を日本に定着させ、「現場力こそが、日本企業の競争力の源泉」という考えを広めるきっかけとなった。   

>しかし、現在、大企業でも不正・不祥事が相次ぐなど、ほとんどすべての日本企業から「現場力」は消え失せようとしている。   

>「なぜ現場力は死んでしまったのか?」「どうすればもう一度、強い組織・チームを作れるのか?」を解説した新刊『新しい現場力 最強の現場力にアップデートする実践的方法論』を、遠藤氏が書き下ろした。   

>その遠藤氏が、「日本の職場が今でも『分断』『縦割り』になる根本理由」について解説する。   

>日本の職場はいまも「分断」されている   

>私は過去30年以上にわたり、日本企業の現場を訪ね歩いてきた。   

>その数は300を超える。   

>この間、私たちを取り巻く環境も大きく変わった。   

>【図1枚でわかる】では、職場の「縦割り」「分断」をなくして「新しい現場力」を生み出す"シンプルな方法"は?   

20年前と比較すると、真っ先に挙げることができるのが「インターネット」「SNS」の普及である。   

>時間、空間、国境などあらゆる「境界線」を越えて、さまざまな「人と人」とが「つながる」ことができ、さまざまな「新たな価値」を生み出している。   

>では、企業の現場はどうだろうか?   

>残念ながら、その答えは「NO」である。   

>相変わらず、現場は「分断」され、「孤立」し、サイロ化したままだ。   

>さまざまな理由があるが、おもな4つの理由が考えられる。   

>【理由①】職場で部署ごとの壁(見えない境界線)がある   

>仕事というものは組織や部門をまたがって、「チェーン(鎖)」としてつながることによってはじめて価値を生む。   

>しかし、概念としてはそのことを理解しても、実際には「縦割り」の意識が強く、「組織の壁」「部門の壁」で情報の断絶が起きたり、意思疎通がうまくいかなかったりする。   

 

そうですね。日本人の社会は序列社会 (縦社会) ですからね。序列における内外の区別はきびしいですからね。縦割りにならざるをえませんね。       

 

>企業が成長し、関わる従業員が増えてくると、当然のことながら、組織は肥大化し、専門化、機能分化していく。   

>部門や個人の仕事はより明確に分けられ、ほかとの「境界線」がはっきり規定される。   

>拠点も地理的に分散し、コミュニケーションは形式的になり、人間同士の「触れ合い」はどんどん薄くなる。   

 

そうですね。

日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。なあなあ主義には触れ合いが必要ですね。   

‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>「ひとつの会社」でありながら、一体感は希薄になり、「見えない境界線」が生まれる。   

 

そうですね。厳しい内外の区別が一体感の造成を阻害していますね。  

 

>この「見えない境界線」が「分断」につながるのだ。

 

馴れ合いには触れ合いが必要ですね。分断は協力の妨げになりますね。      

 

>20年前から「つながる力」は高まっていない   

>【理由②】職場で「タコツボ化」が蔓延している   

>仕事はつながってこそ価値を生むにもかかわらず、「自分、自部門の業務しか知らない」「他部門の業務は無視し関心がない」といったことが現場に蔓延すると、その現場には「タコツボ」が至るところにできてしまう。   

>タコツボ化すると、「自分さえよければいい」ということから、連鎖の視点が欠如する。   

>その結果、組織としての全体最適は追求されずに、部分最適の集合体に陥ってしまう。   

>タコツボ化は「縦割り」意識が強いので、「前工程は後工程を意識しない」「後工程も前工程の業務品質に問題があっても文句を言わない」といった「分断」が現場を支配してしまう。   

20年前に出版した『現場力を鍛える』でも、「タコツボ」をぶち壊すことの重要性や自律的組織のネットワーク化について言及している。   

>しかし、20年後の現実を見れば、現場の「つながる力」は決して高まっているとは言えない。   

 

再教育 (reskilling) が必要ですね。わが国では勉強は子供がするものと決まっているようですね。それが良くない習慣ですね。         

 

>【理由③】職場が「半径5m」に埋没している   

>現場は、企業活動における「価値を生み出す主体」である。そのミッションを遂行するためは、わき目も振らずに目の前のことに没頭し、懸命に「いま・ここ」を生きることが求められる。   

>放っておけば、現場は目の前のことにしか関心を持たないし、「その日暮らし」に陥る。   

>つまり、現場は「半径5m」の中だけで生きているのだ。   

>「半径5m」という狭い世界に埋没している現実   

>実際の職場では、以下のような話があった。   

>「工場内のほかの製造現場を見学したことがない」   

>「その工場内にはいくつもの建屋があるが、ほかの建屋に入ることもまれだ」   

>「隣に座っている営業マンがいま何をしているのかよく知らない」   

>物理的に同じ空間にいるだけで、そこには何の「つながり」も生まれていない。   

>それぞれが「半径5m」というきわめて狭い世界に埋没しているのである。   

 

広い職場が良い職場というわけでもないでしょう。   

 

>【理由④】リモートワークで「人の分断」が生じている   

>コロナ禍で増えはじめたリモートワークでは「人の分断」を招きやすい。    

>たとえば、新入社員などは就職活動の面接から入社後研修に至るまで、ほぼすべてがオンラインで実施。   

>配属後の慣れない仕事も最初からリモートワークであり、気軽に上司や先輩に相談できない。   

>リクルートキャリアコンサルティングが行ったテレワーク実施前後のモチベーション変化に関する調査によると、テレワーク下でチームでの仕事が減った人に限ると、「モチベーションが低い」とする回答が28.4%だった。   

>これは実施前の13.9%と比べると2倍以上になっている。   

>便利だからといって、リモートワークやオンライン一辺倒になってしまっては、「人の分断」が生まれやすく、「社員のモチベーション低下」も招いてしまうおそれがある。    

>では、「分断」「縦割り」な職場を「つなげる」ことの意味はどこにあるのだろうか。    

>それは、現場同士の「交流」(interaction)が生まれることで情報が「交流」し、知恵が「交流」することである。   

 

日本人の交流は肌と肌の触れ合いによるものが多いですね。恣意 (私意・我儘・身勝手) 疎通を意思疎通に切り替えることも必要ですね。

恣意はバラバラな単語で表され文にならないから意味がない。意思は文になっているから意味がある。     

 

>現場力は「実践知」を生み出す活動である。   

>それぞれの現場が単独で努力するだけでなく、現場同士がネットワークを組み、みんなで知恵を分かち合うことが、これまで以上に重要となっている。   

>組織は「縦社会」のように「縦の力」がきわめて強い。   

>しかし、縦糸と横糸が組み合わさってはじめて織物がつくられるように、縦と横が重なり合うことで強い組織はつくられる。   

>「横串」「横展開」という「横の意識」を高めることが、いまこそ求められている。   

 

そうですね。日本人は礼儀正しい。日本人の礼儀作法は序列作法で出来ている。ため口をきいてはならない。ため口禁止が横の意識を妨げている。 (ため口: 相手と対等な立場でモノを言うこと  

 

>「3つのつながり」で現場力はどんどん高まる   

>とはいえ、放っておいても現場同士は勝手にはつながらない。   

>「交流」を創造するための仕組みや仕掛けを講じる必要がある。   

>そのためには、まず「人の交流」を生み出すのが先決である。   

>たとえば、現場のリーダークラスがお互いの現場を訪ねるなど、「非日常」を経験させることが大事だ。    

>人がつながれば、そこから「情報の交流」「知恵の交流」が生まれてくる。   

>現場同士をつなげ、有機的な関係性やネットワークを構築することによって、現場同士が相互に刺激し合い、協力し合い、現場力は間違いなく高まっていく。   

>「分断」「縦割り」をなくし、「人」「情報」「知恵」を交流させることが、これからの「新しい現場力」へとつながっていく。   

 

日本人には横社会の精神を加えることが必要ですね。   

日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。 

 

日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 ‘以心伝心・阿吽の呼吸’といったところか。     

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

日本人は学校で受け売り・後追いの練習ばかりをしている。自己の見解 (非現実) を述べる訓練をしていない。すると、知性の欠けた人間の跋扈する奇妙な社会が出来上がる。     

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、わが国の若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

 

 

 

 


塚崎公義氏  

2024-10-25 10:29:52 | 文化

THE GOLD ONLINE   >日本経済「失われた30年」の根本原因かバブル崩壊後、勤勉な日本人が一斉に描き直した「人生設計」の恐るべき影響力【経済評論家が解説】   >THE GOLD ONLINEによるストーリー・   >1日・   

>事故や災害、あるいは株価の大暴落といった「万が一の事態」に遭遇したとき、人々が一斉に「合理的な行動」をとることで、さらに被害が拡大することがあります。   

>残念ながらこれらは予想がむずかしく、被害の抑制も容易ではありません。   

>そして、この事象はときに、長期にわたって影響を及ぼすこともあるようです。   

>経済評論家の塚崎公義氏が解説します。   

>みんなが合理的に行動すると、みんなが損をする理由   

>劇場火災の際、観客個人として合理的な行動は非常口に向かって走ることです。   

>しかし、全員が同じことをすると、非常口に大勢が殺到して悲惨な事態に陥ります。   

>劇場支配人は「落ち着いて! 走らないで! 前の人の後ろをゆっくり歩いてください」などと放送しますが、人々が合理的に行動しているのを変更させるのは困難でしょう。   

>昭和のギャグに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのがありましたが、「みんなで渡ると余計に危ない」ことが起こり得るのです。   

>むずかしい言葉で「合成の誤謬(ごびゅう)」と呼びます。   

>このようなことは、比較的頻繁に生じています。   

>たとえばスポーツ観戦で、みんなが「よく見えるように立ち上がろう」とすると、みんなが疲れるだけで、見え方は変わりません(みんなの身長が同じならば)。   

>経済の世界でも、たとえば株価暴落の噂を聞いたときに投資家にとって合理的な行動は「売り注文を出す」ことですが、すべての投資家が売り注文を出すと、株価が暴落して全員が損をします。   

>合成の誤謬のむずかしいところは「起きるまではみんながリスクに気づかない」ということです。   

 

そうですね。   

 

>劇場火災が起きる前から非常口の少なさを懸念する観客や、株価暴落が起きる前から合成の誤謬による暴落を心配する投資家は少ないでしょうから。   

>みんなが豊かになろうとすると、みんなが貧しくなる理由   

>みんなが豊かになろうとすると、みんなが長く働いて多く稼ぎ、みんなが倹約します。   

>すると、多くの物(財およびサービス、以下同様)が作られますが、少ない物しか売れないため、売れ残ります。   

>企業は売れ残りを防ぐために生産量を減らしますから、従業員を減らします。   

>クビになった人は失業してしまいますから、貧しくなります。   

>問題は、失業しなかった人も貧しくなる、ということです。   

>経営者が社員に向かって賃下げを切り出すからです。   

>「君たちの給料を下げる。   

>嫌ならやめてもらい、代わりに失業者を雇う。   

>彼らは安い給料でも雇ってほしいといっているから」といわれれば、社員たちは「給料は下がってもいいから雇い続けてください」といわざるを得ないでしょう。   

>みんなが豊かになろうと頑張った結果、みんなが貧しくなってしまう、ということが起こり得るのです。   

 

そうでしょうね。   

 

>じつは、バブル崩壊後の日本経済が長期低迷している理由はこれなのではないか、と筆者は考えています。   

>バブル期までは、人々が「もっといい生活がしたい」と考えていたために、長く働いて多く稼いで多く使うという人が多かったのですが、バブル崩壊後は高齢化社会を前に「老後資金を貯めたい」という人が増えてみんなが金を使わなくなった、ということではないでしょうか。  

 

そうでしょうね。   

 

>そして、バブル崩壊後の不良債権処理もまた…   

>バブル崩壊後、銀行は巨額の不良債権を抱えました。   

>正直に申告すれば銀行が赤字決算になって経営者が恥をかく…とでも考えたのでしょうか、多くの銀行が不良債権隠しをしていたようです。   

>時効なので書いてもよいでしょう(笑)。    

>各銀行にとって合理的なのは、恥をかいてでも、急いで担保不動産を競売することだったはずです。   

>粉飾決算はいけない、というのみならず、不動産が値下がりする前に競売して少しでも多く回収するべきだったはずです。   

>問題は、これが合成の誤謬のリスクとなっていたということです。   

>もしもすべての銀行が不良債権を正直に申告し、借金が返せない借り手から担保不動産を取り上げて競売していたら、日本中の土地が競売されて買い手がつかず、不動産が暴落してすべての銀行が破産して、日本経済も破綻していたかもしれないのです。   

>あるいは、銀行が巨額の赤字を計上しているのを見た預金者たちが一斉に預金を引き出すことによって銀行の資金繰りが破綻して倒産し、日本経済の破綻を招いていたかもしれません。   

>「有識者」たちは、銀行が不良債権を隠していることを批判していました。   

>筆者にいわせると、彼らは合成の誤謬の怖さに気づいていなかったか、気づいていても「正しいことは正しいのだから、正しく行動すべきだ。   

>その結果が悲惨なものであろうと」と考えていたのでしょう。   

>「正しいこと」と「よい結果」が両立しないときにどうすべきか、価値判断の分かれるところだったのかもしれませんね。   

 

そうですね。良い結果の方を採って皆が罪人になることですね。原爆投下を許可する大統領の様なものか。これが人生経験というものですね。         

 

>当時、銀行には大蔵省検査が定期的に入っていました。   

>いまの金融庁検査です。   

>検査官は、容易に銀行の「粉飾決算」を見つけることができたはずなのですが、極端な事例を除いては「お目こぼし」をしていたのだろう、と筆者は考えています。    

>それを「監督官庁と業界との癒着だ」というのは簡単ですが、筆者は大蔵省を高く評価しているので、単なる癒着だったとは考えていません。   

>彼らは「不良債権をすべて厳しく指摘したら、日本経済が破綻してしまうだろう。   

>それを避けるためには、許容範囲ギリギリまで見逃して、絶対アウトなものだけを指摘するに止めるしかない」という高度な政治的判断をしていたのだろう、と考えています。   

 

人間は誰もが罪人ですね。人間は生きている以上罪人にならざるをえませんね。だから天真爛漫な態度がとれない。悪びれた顔になる。いつまでも子供ではいられない。         

 

>上記は筆者の単なる想像であり、当時の大蔵省幹部に聞いて見たことはありません。   

>もしも筆者が正しかった場合、聞かれた方も困るでしょうから(笑)。   

>今回は、以上です。なお、本稿はわかりやすさを重視しているため、細部が厳密ではない場合があります。   

>ご了承いただければ幸いです。   

>筆者への取材、講演、原稿等のご相談は「ゴールドオンライン事務局」までお願いします。   

>「THE GOLD ONLINE」トップページの下にある「お問い合わせ」からご連絡ください。   

>塚崎 公義   

>経済評論家   

 

 

 

 

 

 

 


ルール  

2024-10-25 00:31:49 | 文化

>まいどなニュース   >ルールを定める国会で首相が「ルールを守る」ことを約束する滑稽さ「信無くば―」はどこに   >まいどなニュースの意見・   >13時間・   

> コントに見えるのは、私だけではないだろう。   

>日本のルールを定める国会で、首相が真顔で「ルールを守る」ことをお約束するのだから、笑うしかない。   

 

「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)   

 

> 記者は20年近く前から政治取材に関ってきたが、裏金など政治不信の話題は事欠かない。   

>そのたびに政治家たちはある言葉を口にする。   

>「信無くば立たず」。   

>慌ただしく閉会した先の臨時国会でも、やはり出た。   

>政治は民の信頼無くして成り立たないという意味だ。   

> この言葉は、記者の頭の中では野党時代の自民党総裁、谷垣禎一さんと結びついている。   

>失墜した自民の信頼回復役を担った谷垣さんは、国会や党大会で何度も「信無くば-」と訴えた。   

>当時は、民主党政権が信頼を失っていく時期。   

>谷垣さんの誠実な人柄もあってか「自民は生まれ変わるのかも」と、言葉に力を感じたものだった。   

> 出典は論語。   

>意訳すれば、次のような話となる。   

> 孔子が政治で大切なこととして食、軍備、民の信頼を挙げたのに対し、弟子が「やむを得ずどれかを捨てるならどれか」と質問。   

>孔子は「まず軍備。次は食」と答えた上で「民信無くば立たず」と諭した-。   

> 大国同士が覇権を争った古代中国で、よくこんな教えを説けたものだと感心する。   

>そういえば、現代日本の政治家は安全保障環境の変化を受けた防衛力強化や、今夏のコメ不足を踏まえた食の確保を訴えている。   

>晩酌しながら論語を読み返すうち、孔子が「民の信頼が無ければ、安全保障政策も食料政策も、何も成し遂げることはできない」と、忠告しているように思えてきた。   

> 孔子は晩年は不遇だったという。   

>谷垣さんも政権奪還直前に自民の権力闘争に敗れ、首相になれなかった。   

>ルールも守れない政治家たちは「現実の政治の中で権力を握り世界と渡り合うには、きれい事は役に立たない」と、「信無くば-」の言葉を内心小ばかにしているかもしれない。   

 

そうですね。日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。非現実がないから、現実の上に胡坐をかいて安心して居られる。これは浅はかではなかろうか。         

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

(まいどなニュース/京都新聞)