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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

今村優莉氏  

2024-10-22 23:33:28 | 文化

>テレ朝news   >「デモに行け」と言われても…日本に住む私たちが出来ること 子育て中の記者が研究者の言葉から得た民主主義のヒント   >テレ朝newsによるストーリー・   >1日・   

>民主主義の仕組みと権威主義との違いについて、連載で伝えてきた。   

>では、民主主義を守るためには何が必要なのか。   

>私たちにできることは何だろう。   

>スウェーデンの独立調査機関「V-Dem研究所」のスタファン・リンドバーグ所長(イエーテボリ大学教授)へのインタビューを通じて、世界各国の民主化の状況を分析しながら、これらの問いについて考えてみたい。   

>テレビ朝日デジタルニュース部では「アニメでわかる!民主主義のおはなし」を制作しました。   

>民主主義の仕組みや、独裁政治、権威主義についてオリジナルキャラクター「デモにゃん」がわかりやすく解説します。   

>投票権がなくても、出来ることがある   

>――民主主義を維持するために、私たちができることはどんなことですか   

>私たちは常に声を上げ続け、闘わなければならないと思います。   

>間違いなく。   

>最も簡単なことの一つは、選挙に行って投票することです。   

>私たちは市民として、政治家が何をしているのか、何を決めているのか、どのように社会を変えているのかを見ることができます。   

>それが気に入るかどうか、つまり支持するかどうかを判断します。   

>そして、投票所に行き、紙を手に取り、自分が支持する政党や候補者の名前を書く。   

>そして、それを箱の中に入れます。   

>とても簡単なことです。   

>同時に、私たちは選んだ政治家がウソをついていないか、彼らが責任を持ってやるべきことをしているかどうか、チェックをする責任があります。   

>もし、約束と違うことをしていたら、次の選挙で別の人を選ぶことができます。   

>――投票権を持たない若い世代に民主主義の重要性をどのように伝えるべきでしょうか   

>たとえまだ投票権がなくても、政治や市民社会に関心を持つことは大切です。   

>生活の中で議論に参加することも可能でしょう。   

>気になることがあれば周りの人と話し、必要であればデモに参加することも、デモを組織することもできますよね。   

>そうしていくことで、周りにいる、人々の投票行動に影響を与えることができるかもしれません。   

>民主主義の最前線には常に若者がいた   

>――若者の行動によって政治システムが改善した例はありますか   

>民主主義のために闘ってきた場所では、常に若者が最前線にいました。   

2000年代に旧ソ連諸国で起きた「カラー革命」では、若者が非常に重要な役割を果たしました。   

>ウクライナのオレンジ革命(2004年)では、若者や学生が不正選挙に対して抗議し、民主化を求めました。   

>グルジア(現ジョージア)で起きたバラ革命(2003年)やキルギスのチューリップ革命(2005年)でも、学生らが腐敗した政府への抗議活動で中心的な役割を果たし、結果的に政権の崩壊をもたらしました。   

>南アフリカのザンビアで民主化を求める運動があったときは、若者や女性の団体が反腐敗運動に参加したり、政府の透明化や説明責任を求める声を上げたりしました。   

>彼らはソーシャルメディアを活用して政治参加を呼びかけ、選挙に対する意識を高める活動をしました。   

>その結果、若者たちが支持する候補者が勝利を収めました。   

2014年に香港で起きた民主化要求デモ「雨傘運動」は、香港に対して統制を強めた中国本土に対する大規模な市民運動で、大学の若者たちがデモを組織しました。   

>彼らは失敗し、敗北しましたが、先頭に立って抵抗する姿は世界中から注目されました。   

>民主化運動では、しばしば学生組織や若者による団体、労働組合の青年部門などの市民社会組織が非常に重要であり、彼らは常にバリケードの前に立ち、人権と民主主義を守るために声を挙げたり、街頭デモをしたりしてきました。   

>声をあげる機会を利用しなければ、文句はいえない   

>――日本の20代の投票率は他年代に比べて常に低いです。   

>どうすれば若者が政治に関心を寄せると思いますか   

>若者が民主主義の価値を理解し、政治や市民活動に参加することは、日本の民主主義を守るためにとても大切なことです。   

>政治に関与することで未来の日本をどのようにするか、影響を与えることができる、そうでしょう?   

>もし政治に関心を持たなければ、何が起こっても受け入れなければならないでしょう。    

>投票する機会はありましたか。   

>市民活動に参加する機会はありましたか。   

>デモに参加して、声をあげ、自分の意見を主張する機会はありましたか。   

>もしあったのに、そのチャンスを利用しないのだとしたら、為政者によって決められることについて文句を言う資格はありません。   

 

我が国のように、民がノンポリ・政治音痴ではどうにもならないですね。   

 

>――民主主義のシステムを機能させるために一番重要なのは教育、メディア、現役の政治家…どれでしょうか   

>私はすべてが重要だと思います。   

>民主主義は一つの要素にかかっているわけではなく、どれか一つが他よりも大事だと言うことは難しいです。   

>若者が良い教育を受けること、特に民主主義について知ることはとても重要です。   

>なぜ民主主義が大事であるかについて、もっと教育されるべきでしょう。   

>メディアは非常に重要であり、インターネットが発達し、瞬時にデマやニセ情報が飛び交う世界において、真実を伝える役割はいままでになく重要です。   

>(取材・構成:テレビ朝日デジタルニュース部 今村優莉、石川瑞樹)   

>ー取材を終えてー「デモに行け」と言われても…   

>「投票に行かなければ、文句も言えないじゃないか」。   

>直近の国政選挙(2021 年)で、日本の20代の投票率が36.5%であることを伝えたとき、7時間差あるオンライン画面の先で、スタファン・リンドバーグ教授はあきれたような、少しいらだっているような表情を見せた。   

>「なぜ日本の若者が政治と距離を置いているのか、私には理解できない」と首をかしげた。    

 

日本人には世界感がない。あるべき姿が各人の脳裏には無い。だから夢と希望を語り合う時がない。      

 

>民主主義の大切さについては理解できたが、世界におけるデモや革命の話をされても、それをそのまま読者に伝えて共感を得られるか、正直ピンと来なかったのがホンネだ。   

>どうすれば、日本の若い人たちに民主主義や選挙の大切さを知ってもらえるだろうか。   

>いや、そもそもなぜ、政治に興味がない人が若年層には多いのだろうか。   

>ヒントを求めて、粕谷祐子・慶応大学法学部教授(V-Dem東アジア地域センター所長)を訪ねた。   

>粕谷氏は、フィリピンやマレーシアの選挙の様子を目にした経験をもとに「家庭単位」での教育が大事ではないかと指摘する。   

>「東南アジアの国々の人は、選挙に家族で行くんです。   

>親や、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に選挙に行くようになると、小さいうちから『選挙とは、行くものだ』という習慣のようなものができていく」と話す。    

 

選挙が単なる義務というのもなさけない話ですね。夢と希望を語り合う機会にしたいですね。      

 

>教育、というよりは「家庭単位でそういう習慣があると、政治に関する環境に無意識に近づいていく」。   

>また、国政レベルでは、政権交代が起こりそうにないなど、最初から誰が国のリーダーになるのかが分かってしまう選挙だったら「『行ってもしょうがないよね』と世代を問わず諦めに近いものがあるかもしれない」とも分析。   

>政権を任せたいと思える新たな勢力が日本では育っていないことが、投票率の低さにつながっていることを暗示した。    

 

我が国では、政権交代も世代交代もありませんね。今いる政治家たちも若者たちも、次世代の指導者育成に熱心ではありませんね。      

 

>民主主義は身近なところにもある、と粕谷教授は話す。   

>「例えば、生徒会。   

>学校だから、生徒は全員、投票権を持っていますよね。   

>でもそれを使わなかったら、自分が好きではない人が生徒会長になって、めちゃくちゃな校則を作ってしまうとか。   

>そう考えると、投票に行った方がメリットがあると伝えやすいですよね」。   

>生徒会選挙でなくても、例えばクラスのなかで新しいルールを決めることも「クラスの自治をどうするか、という話ですし、リーダーシップを発揮する子どもにどうしたら育てられるのか話し合うことも、民主政治です」と説明した。     

 

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がなく、責任のある指導者として適任でない。   

 

>「政治の仕組みを理解するのは政治学者の仕事ですが、投票権がない子どもたちにも、普段の生活から自分事として考えられるところに民主主義があるよ、と話したり、自分の生きている空間、学校の仲間や一緒に過ごしている友達の間でどんなふうに合意の形成をしていくのかっていうことについて考えたりするという過程を大事にしてほしい。   

>そこが、民主主義の一番の基礎だと思います」。    

>出来ることが、私たちにもあるかもしれない。   

>選挙に行っても変わらない、いや、そもそも政治に興味を持ってはもらえないだろうと諦めるのはまだ早いと考えさせられた。   

>まもなく、選挙だ。   

>子どもを連れて投票に行ってみようと思った。   

>(今村優莉)

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるかもしれませんね。   

 

 

 

 

 

 


ポスト・モダン  

2024-10-22 21:48:50 | 文化

>現代ビジネス   >日本社会の「最大のガン」の正体私が「ポスト・モダン」だけを語る人たちが嫌いである理由   >堀有伸 (精神科医・ほりメンタルクリニック院長) によるストーリー・   14時間・   

>熟慮や中庸といった精神的な姿勢の価値が回復されねばならない。   

>私は精神科医で、2011年の福島での原発事故の後に2012年に南相馬市に移住してから、政治的な事柄について考えたり発言することが増えた。   

>当初から自分のことをいわゆる「左派・リベラル」だと自認してきた。   

>しかし、10年以上の年月を経て、次第に保守的な姿勢が強まった。   

>今回はそのあたりの事情を説明したい。   

>この記事では「左派」「リベラル」に大きな影響を与えている「ポスト・モダン」という思想傾向に触れている。   

>そうするのは、俗流化したポスト・モダン的な左派の思考や行動の様式が、「ナルシシズム」という人間心理の厄介な問題を解決させることにつながらず、それをこじらせて成熟を妨げるような性質を強めていることに危機感を抱いているからである。   

>日本が全体として精神的な成熟を深めるためには、第二次世界大戦における敗戦という出来事に向かい合い、何らかの国民としての共通認識を持てるようになることが大切だと考えている。

 

そうですね。   

 

>現在は、「何も悪いことはなかった。   

>帝国主義の欧米がつくった状況に強いられてそうなっただけだ」という意識と、「日本のように罪深い国はない」という意識に分裂している。   

>そのどちらも、熟慮の末に達成されたものではない。   

 

そうですね。   

 

>情緒的な面からは、加害者であったことも含めて、悲惨なトラウマであった戦争について、悲嘆や恐怖の感情を含めてきちんとそれらを受け止めた上で、一貫した主体的な意識の中に、さまざまな経験を統合していけるようになることが必要だろう。   

>その作業は、ずっと回避されてきた。   

>しかしもちろん、戦後の日本人がその課題を回避し続けてきたばかりではない。   

>思い浮かぶのは、丸山眞男が日本社会を「無責任の体系」と批判し、そのことについて精緻な分析を行った一連の業績など、1980年代頃まで盛んだった一連の日本人論の成果だ。   

>丸山の他に藤田省三、中根千枝、川島武宣、土居健郎、山本七平、中村元らの名前を挙げておきたい。   

>私はこれらの仕事を引き継ぎ、いかにして「無責任の体系」と名指された社会の中に、責任感を持って一貫した姿勢で社会に参画できる市民を育成していくことが、目指されるべきだと考える。   

 

そうですね。   

 

>しかし、その作業に興味を示す人は少ない。   

>個人的にはそのための作業を、「日本的ナルシシズムを分析する」という形で継続しているつもりである。   

>しかし日本が高度経済成長を遂げ、また「日本的経営」の優秀さが欧米からも賞賛された事情もあり、こういった日本を貶める印象のある言説が遠ざけられるようになった。   

>時に自虐的に言及されることを除いては。   

>批評家の柄谷行人が2007年に講談社から『日本精神分析』という本を出版している。   

>この中で、前述したような日本人論への興味を日本の左派知識人が失っていった経緯が説明されている。   

>「ポスト・モダン」と呼ばれる思想の影響力が強まったのである。   

>「ポスト・モダン」について簡便に説明することは難しい。   

>しかし、丸山らが理想として掲げていたような「一貫した責任を持てる市民」といったイメージを解体する方向の影響を与えるものであると説明することは、不可能ではないだろう。   

>柄谷自身の表現を引用する。   

>「自己(主体)の不在というようなことを日本の思想の欠陥として批判したのですが、そのような近代的主体を否定するポスト・モダニズムの思想が西洋から到来したのです」   

>さらに「その結果、日本こそ、ポスト・モダニズムの先端を行くということになったのです」という発想も出てくる。   

>そのような言い方で、日本のアニメのような文化が、世界で評価される状況が理解されるようになった。   

>「ポスト・モダン」が受け入れられ、その影響力が強まっていった流れがあるにもかかわらず、2024年という今の時代に私がやっているように、1980年代の文献に依拠して「日本は非近代的な」などと批判しているのは、まったく時代遅れのダサい所作とみなされるようになっている。   

>しかし私も、ポスト・モダンの言い方や仕草を全く知らない訳ではない。   

>時代遅れにみえても、自分が行ってきたような分析と問題提起が、これから述べるような理由で必要であると考えているから行っているのである。   

>実際、丸山らが指摘した問題点は、高度経済成長後に国が豊かになって目立たなくなっていただけで、温存されていた。   

>それが経済力の衰えによって、改めて見えやすくなっているのが現在である。   

>西欧におけるポスト・モダンの思潮の高まりは、第二次世界大戦のホロコーストのような体験に彼らが向かい合った思想的経験に影響されている。   

>これも丸山眞男が指摘していることであるが、ナチス高官の一部は過度に理性的で、合理的な判断としてホロコーストを遂行した。   

>そのような経験を反省し乗り越えるための営みとして、近代的な主体を解体するモーメントを持つポスト・モダンの思想を解釈できる。   

>一方日本である。   

>大日本帝国のプロジェクトにかかわり戦後も生き残った指導層の多くが、戦争遂行の理念には表面的に賛同していただけで、自分は空気に強いられただけであり、主体的にそこに関与した感覚に乏しいという状況だった。   

 

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

兎角この世は無責任ですね。  

 

>丸山はそのような日本社会のありようを「無責任の体系」と呼んだ。   

>このような無責任さが日本社会についての真剣な分析結果として指摘されていたのにもかかわらず、現在の左派知識人のサークルが外来の「ポスト・モダン」の受容と紹介に没頭することを続けたらどうなるのか。   

>ますます無責任さが強まってそれが温存されてしまうのではないか、それが私の問題意識である。   

>誤解がないようにしたいのは、私も日本のポスト・モダンの受容とその精緻な応用は、多くの価値をもたらしたと思っている。   

>しかし2011年の原発事故後に起きたことは、私にとってはこのようなポスト・モダンの影響が強い現代日本の左派知識人の限界を示す出来事だった。   

 

そうですね。   

 

>彼らは、「大きな物語」にコミットすることを警戒し、それを忌避する。   

>そのような仕草は、日常的なミクロな体験を分析し記述するのには役に立つが、「原発」「国防」といった国全体や世界のあり方にかかわる「大きなこと」からは切り離された、タコ壺化した一部左派知識人とその取り巻きによる、やや自閉的なサークルを生み出すのみで、それを超えた影響を十分に発揮しないことに通じる。   

>もちろん、そうなる。   

>彼ら自身が、そういう大きな意味で社会に影響を与えることを望んでいないのだから。   

>しかし、私たちの社会の指針を示してくれるような信頼できる「文系の偉い人」がいないのも、心細い話である。   

 

我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、わが国の若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>私にとって悪い意味で衝撃的だったのが、自分たちの得意な領域については非常に巧緻性の高い分析や思考を巡らす左派知識人の多くが、社会の大きな問題にかかわると極端に粗雑な言動を示したことだ。   

>原発事故に関していえば、単純に政府や東京電力の言動は悪で、それを批判すればよいといった安易な判断で十分と考えているように見えた。   

>あるいは、そういう判断から撤退して、自分の領域内にのみ引きこもっているように見えたこともある。   

>得意分野では華麗な分析を行う姿を知っていたし、それに憧れていたところもあったので、その落差を理解して受け止めることに時間がかかった。   

>多分、そういった知識人たちは、普段考えたことがないことに急に発言しなければならなくなり、短絡的に身内のサークルで受けそうな発言をして引っ込みがつかなくなっている場合も、少なくないのだろうと予想する。   

>しかし、「政府は全部正しい」権威主義者と、「政府は全部間違っている」という雑な水準で判断している左派言論人は、精神的なレベルでは同水準にあるとしか思えない。   

>役所>民間、年長者>年下、男>女といったタテ社会の論理の逆をいつも実践したからといって、タテ社会の論理への依存を克服したことにはならないだろう。   

 

そうですね。   

 

>私の日々の仕事は医者である。   

>その立場からは、一部の反原発の運動家たちの放射線被ばくの影響の過剰な喧伝、反ワクチン論者たちが跋扈する現代の混乱は、本当に嘆かわしい。   

>「ポスト・モダン」的な論者たちには、それらの活動家たちに対する牽制を行わず、それを助長しているような悪影響を及ぼしていることへの反省を求めたい気持ちもある。   

>ここで、近代のオーソドックスな考え方である、「一貫して責任を持って判断する主体」という概念の重要性に立ち返る必要があると考える。   

 

そうですね。   

 

>そのような主体が真剣に物事に取り組む特に行うのが熟慮であり、そこで重んじられるのが中庸だ。   

>ポスト・モダン的な論者が「そんな主体とか自我とかいうものは、ペテンでまやかしで、本当にはない」と主張したとしても、それをまともに受け取る訳にはいかない。   

>人間の経験や社会を成り立たせるためには、そういう次元の精神活動も必要なのだ。   

>そもそも、近代社会を成り立たせる基本的人権、民主主義、資本主義などは、そういう「主体」「個人」を前提にできている制度なのである。   

1967年に中根千枝が『タテ社会の人間関係』で行った分析の、現在にまで続く有効性を改めて感じている。   

>注目したいのは、次のような指摘だ。   

>「とにかく、痛感することは、「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」   

 

そうですね。  

 

>もちろん、日本以外の世界を見れば、民主主義や資本主義などが危機にあることは明らかだろう。   

>そこで、ポスト・モダン的な思索が重要なのも理解できる。   

>しかし日本はそれだけではやっていけないと思う。   

>モダンの考え方で、日本の前近代的な部分を近代化させていくという課題にも、同時に立ち向かっていかねばならないのだ。   

 

 

 

 

 

 

 


はじめての人類学  

2024-10-22 20:27:36 | 文化

>現代ビジネス   >海外からは「日本人」ってどう見えてるの?…ある人類学者が提唱した「超重要キーワード」   >奥野克巳の意見・   >11時間・   

>「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。   

>聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。   

>『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。   

>※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。   

>日本研究の名著   

>アメリカ人類学における重要人物、ルース・ベネディクトの著作として『菊と刀』を取り上げてみましょう。   

>この本のタイトルを聞いたことがある人も多いかもしれません。   

>日本国内では日本研究の書としてよく知られています。   

>ベネディクトは日本を一度も訪れないままこの本を書いたのですが、だからといって彼女がフィールドワーカーでなかったわけではありません。   

>ベネディクトは1922年にセラノ、1924年にズニ、翌年にズニとコチティ、1927年にピマのフィールドワークを行い、1931年以降には学生とともに、アパッチやブラックフットという、数々のネイティブ・アメリカンの現地調査を行っています。   

>彼女も師であるボアズの考えを引き継いで、急速に失われゆくネイティブ・アメリカンの伝統文化の記録を残すべきだと考えていたのです。   

>ベネディクトは第二次世界大戦が始まると、アメリカ軍の戦時情報局に召集されます。   

>1944年に日本研究の仕事を委嘱され、その時まとめられた報告書をもとにして、戦後の1946年に『菊と刀』を出版しています。   

>彼女は『菊と刀』の第1章で、現地に行かないで日本研究を行うことに関して、アメリカには日本で育った日本人がたくさんいて聞き取りが可能であり、また過去に蓄積された日本研究の厖大な資料を参照することができる状況だったと述べています。   

>この著作に関しては、日本人がどんな国民であるのかを解明してほしいという依頼をアメリカ軍から引き受けた点で、人類学が戦争協力に与したという指摘があります。   

>たしかにそうなのでしょうが、事情はもう少し複雑かもしれません。   

>それはアメリカという特有の政治状況の中で、人類学が発展してきた事実にも関わっています。   

>すでに述べたように、アメリカ人類学はファシズムや共産主義思想に対抗し、民主主義を守るための理想を追求するという観点から発展を遂げていきました。   

>そうした政治状況の中で『菊と刀』は書かれたのです。   

>『菊と刀』は、日本の「恥の文化」と欧米の「罪の文化」を対比的に語っている本であると評されます。   

>ベネディクトは、欧米の「罪の文化」は、善悪の絶対的基準を用いて良心の啓発を説く、キリスト教をベースにしていると見ます。   

 

欧米人には意思がある。意思のある人間には加害者意識がある。罪の意識もある。深刻な反省におちいることもある。  

日本人には意思がない。被害者意識はあっても、加害者意識がない。罪の意識もない。これは子供やアニマルと同じである。加害の事実に深刻な反省はない。日本の宗教も贖罪と距離置いている。     

 

>その観点から、人々は神の視点を内面化し、罪の意識という強制力によって自己を律し、善行に♯勤{いそ}しむのです。   

 

罪の意識が高じると、欧米人は地獄におちる。地獄におちなければ、天国の話しも極楽の話しも必要でない。      

 

>「罪の文化」と「恥の文化」   

>それに対して「恥の文化」では、善悪の絶対的基準となるものがありません。   

 

そうですね。序列順位は横並びの比較ですからね。絶対的な基準がない。    

 

>「恥の文化」にいる人々は、「世間の目」によって自分の行動を決めると言います。   

 

そうですね。日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。だから、日本人は現実に流されやすいです。   

 

>要するに、人からどう見られているかを基準にして生活を送っているのです。   

 

そうですね。見栄と外聞に従って生きていますね。   

 

>他人からの批評という外面的な強制力に基づいて日常の振る舞いが決められるのです。

 

そうですね。日本人は思考を停止していますから。判断は外面的なものに頼らざるを得ないですね。      

 

>日本人は、恥辱感を原動力としています。   

 

そうですね。日本人には序列メンタリィティがあり、向上心がある。下位は人間には屈辱感がありますね。日本人の礼儀作法は序列作法になっていますね。序列なきところに礼儀なしです。      

 

>世間の目を気にしながら、恥をかかないように自己を抑制するのです。   

 

そうですね。   

 

>ベネディクトはそこから論を進めて、日本人たちは、恥をかくことがないように自分で自分を監視するために、「無我」の境地や「死んだつもりになって生きる」ことを理想としているのだと、とてもユニークな解釈を提示しています。   

 

自分本位でなければ屈辱感は生じませんからね。   

 

>こうした分析の根底にあるのは、文化相対主義的な視点です。   

>彼女は欧米の文化と日本の文化、「罪の文化」と「恥の文化」には優劣はないという前提から持論を展開しています。   

 

そうですね。不自由を常と思えば不足なしですね。   

 

>ただ、『菊と刀』最終章の「降伏後の日本人」でベネディクトが述べていることは、文化相対主義と矛盾するかもしれません。   

>ベネディクトは、アメリカの民主主義の理念である個人主義や契約の概念に合致しない非民主的な制度や慣習は廃止しなければならないと断じています。   

 

そうでしょうね。そうでなければ文化的な生活ができませんからね。この選択は趣味の問題になりますね。         

 

>そして文化は学習可能だとするボアズ以来の見方に沿って、日本はアメリカの民主主義的な国家に生まれ変わらなければならないと唱えるのです。   

 

民主主義国か、権威主義国かの選択に成れば、やはり我々は民主主義国を選択しますね。   

 

>つまり、アメリカの民主主義という方便に、文化相対主義が無残にも組み込まれてしまっているのです。   

 

世界には民主主義国でない国の方が多いですね。権威主義国には長い伝統がありますからね。人々は強権に慣れきっていますね。       

 

>「生のあり方」を探究するアメリカの人類学はここへ来て、現実への提言をする中で、大きな困難を抱え込んでしまったのだと言えるのかも知れません。   

 

権威主義国では、個人の自由を大幅に制限しなくてはなりませんね。それが嫌な人は、命を懸けて祖国を離れなくてはなりません。      

 

 

 

 


福沢諭吉  

2024-10-22 00:38:40 | 文化

>現代ビジネス   >福沢諭吉にだけ見えていた景色…知らないうちに日本人が立たされていた「岐路」   >藤田正勝の意見・   >17時間・   

>明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。   

>「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。   

>そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。   

>『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。   

>※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。   

>福沢諭吉と西周   

>福沢諭吉もまた、西周と同様、近代化の現場の渦中にいた一人である。   

>その渦中にいただけでなく、福沢こそ、西洋の衝撃を誰よりも意識的に──単なる驚きとしてではなく、生じるべき変革と結びつけて──受けとめた人であり、その変革について──その理念と道筋とについて──くり返し語り続けた人であったと言えるであろう。   

>もちろん福沢は哲学を主たる研究対象とした研究者ではなかったが、近代化──福沢の表現では「文明」化──についての理解、さらにその学問観は日本の近代的学問の確立に大きな影響を与えた。   

>その点を以下で具体的に見ていきたい。   

>福沢諭吉にだけ見えていた景色…知らないうちに日本人が立たされていた「岐路」   

>福沢が一八七五(明治八)年に刊行した『文明論之概略』は、彼の数多い著作のなかでも、彼の思想の根幹にあるものを──言いかえればその原理に関わるものを──もっともまとまった形で表明したものであった。   

>そこで福沢が問題にしたのは、表題の通り「文明」、ないし「文明」化であった。   

>福沢はまさに「文明」化の必要性を説いてやまない人であったと言うことができる。   

>福沢の「文明」についての理解において重要なのは、「外の文明」と「内の文明」とを区別した点である。   

>「外の文明」が目に見える形での文明の成果であるとすれば、「内の文明」は、それを生みだすもととなったものの見方であり、行動の原則である。   

>そして文明化を実現するためには、「外の文明」ではなく「内の文明」を優先しなければならないというのが福沢の基本的な考えであった。   

 

それは正しい見方でしょうね。外の文明は頭の外の内容 (事実) で、内の文明は頭の中の内容 (考え・哲学) でしょう。      

 

>それは明らかに、進行しつつある西洋受容に対する福沢の痛烈な批判を背景にした主張であった。   

>「外の文明」を支える内なるものにまったく目を向けることなく、ただ衣食住や法律、制度など、外に見えるものだけを移植しようとする表面的な文明論者の態度を福沢は厳しく批判したのである。   

 

それはリーズナブルな見方ですね。浅薄な人であってはなりませんね。      

 

>福沢は「内の文明」のもとに何を理解していたのであろうか。   

>それは、「文明」化を支える「精神的基盤」とも言うべきものであるが、それを福沢はまず、「旧慣に惑溺せず」という態度のなかに見ていた。   

>習慣的となったものの見方や考え方にとらわれ、他のものが見えなくなった状態から脱却すべきことを福沢は主張したのである。   

>この「惑溺」からいかにして脱却することができるか、言いかえれば、いかにして精神の自由を実現することができるか、それが『文明論之概略』で福沢が論じようとしたもっとも大きな問題であった。   

>そのために不可欠と福沢の考えたものが二つある。   

>一つは「疑の心」であり、もう一つは、思考・見解・価値の多様性である。   

>『学問のすゝめ』(一八七二―一八七六年)においても福沢は、「西洋諸国の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、疑の一点より出でざるものなし」と述べ、疑いこそが、文明の源であることを主張している。   

>習慣として固定化したものの見方や先達の主張・論証を疑い、改めて検討することから、新たな法則や新たな真理の発見がなされるのであり、疑いなくしては文明の進歩はありえないというのである。   

>福沢が文明化に、あるいは自由の実現に必須な前提として、懐疑の精神とともに注目したのが思考・見解・価値の多様性であった。   

 

それは個人主義の発見ですね。   

 

>『文明論之概略』において次のように述べている。   

>「単一の説を守れば、其説の性質は仮令い純精善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可らず。   

>自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知る可し」。   

 

そうですね。   

 

>「合理的な思考」とは    

>なぜ「純精善良」な見解・主張が自由と相反するのであろうか。   

>あるいは、なぜ多くの見解・主張が対立し、相争うところに自由の気風が生ずるのであろうか。   

>その問いに福沢は直接答えてはいないが、次のように考えることができるであろう。   

>さまざまな見解や主張を許容し、それぞれの根拠を相互に検討し、最善のものを選択するところに議論の地盤が形作られる。   

>ただ一つの説の支配は、逆に、そのような議論の場の成立を妨げる。   

>あるいは、議論の技術の成熟を妨げる。   

>いま述べたような議論の地盤が成立しているところにこそ、自由に議論を戦わし、真理を目ざす気風が生まれると考えられる。   

 

そうですね。   

 

>福沢が「外の文明」と「内の文明」とを区別し、「内の文明」の重要性を強調したのは、ただ単に「外の文明」を無反省に取り入れようとする時代の風潮を批判するためだけにではなく、それと同時に──そしてより根本的には──、いわゆる「東洋道徳西洋芸術」といった考え方を批判するためでもあったと言うことができる。   

>世界観や道徳観は伝統的なものをそのままとり、その上に西洋の技術文明を接ぎ木するという発想を批判することが福沢の文明論の核心をなしていたと言ってもよい。   

>彼の近代化論は、明らかに学問の変革という問題に結びついていた。   

 

そうですね。   

 

>そのことを端的に示していると思われるのは『福翁自伝』(一八九九年)の次の文である。   

>「東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心と、此二点である。   

>……人間万事、数理の外に逸することは叶わず、独立の外に依る所なしと云う可き此大切なる一義を、我日本国に於ては軽く視て居る。   

>……全く漢学教育の罪である」。   

>ここで福沢は東洋に欠け、その文明化に必須なものとして、「数理学」と「独立心」の二つを挙げている。   

>「独立心」については、先に見た、習慣的となったものの見方や考え方にとらわれずに自由に思索し、行動する精神を指すと考えてよいであろう。   

 

独立心は意思 (will) の事でしょうね。日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。   

 

>「数理学」はさしあたっては数学と物理学を指すが、より広く合理的な思考を支える基礎的学問を指すと考えてよいであろう。   

 

数理学はAI (人工知能: artificial intelligence) でしょうね。  

 

>そのような学問の受容が文明化の必須な前提であると福沢が考えていたことを、先の文章はよく示している。   

 

そうですね。   

日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。 

 

日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 ‘以心伝心・阿吽の呼吸’といったところか。     

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

日本人は学校で受け売り・後追いの練習ばかりをしている。自己の見解 (非現実) を述べる訓練をしていない。すると、知性の欠けた人間の跋扈する奇妙な社会が出来上がる。      

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、わが国の若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)