(1/2の続き)
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)
>英語圏では幼い子どもが行っている程度の会話の訓練、つまり知的発達とは無縁の訓練を、日本では中学や高校ばかりでなく大学の授業時間内に行うようになったのである。
そうですね。それでも会話は流暢とはいかないですね。
> (略)
>● こんな教育ではAI時代は生き残れない
> 外国人との会話に直接使える言い回しや発音のハウツーを習い、リスニングの訓練をするばかりでは、英語で書かれた文学や評論を日本語に訳すときのような知的鍛錬にならず、知的発達が滞ってしまう。
そうですね。学校教育を受けていない人たちと同じ状態ですね。真の理解をせずに忖度 (推察) に走るのも困りものですね。
> そんなことを授業でやっていたら、すでに研究データを紹介したように英語の学力低下をもたらすばかりでなく、私たち日本人にとっての思考の道具である国語力も向上せず、思考力は磨かれない。
そうですね。根本原因の究明が大切ですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>この先、AIの通訳機能の発達により、だれもが母国語で外国人とコミュニケーションできる時代になったら、薄っぺらい英会話教育に力を入れて育った人間に、果たして生きる道はあるのだろうか。
そうですね。重厚な英会話を獲得するには、英米流の高等教育を受けることが必要ですね。
> それにもかかわらず、小学校から英会話中心の英語の授業が行われるようになり、子どもたちは学校の授業だけでなく塾にまで通って、貴重な勉強時間を英会話の訓練に費やす方向に歩み出している。
日本人がたとえ英語がペラペラになったとしても、英語圏に行けばその人は ‘ただの人’ になりますね。
> たとえ現場の教員も、子どもたちの保護者も、今の教育が知的発達を阻害するとわかっていても、歩みを止められない。
相変わらず、‘人の振り見て我がふり直せ’ が流行っていますね。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’( グレゴリー・クラーク)
>なぜなら、今後、ますます大学入試で英会話力を問う方向になっていくため、英会話力を高めるために時間、労力、金を費やすしかないのだ。
かつての大英帝国の植民地のような状態であっては、民は英米流の高等教育は受けられませんね。
>● 設問文の意味すらわからない
(略)
> 1日の読書時間が0(ゼロ)という学生の比率は、2012年までは30%台半ばで推移していたが、2013年以降高まり続け、ついに2017年には53.1%と過半数に達した。>2019年は48.1%と多少低下したものの、相変わらず半数ほどの学生が読書時間0(ゼロ)となっている。>もちろん今でも読書に熱心な学生もいて、26.8%の学生が1日1時間以上は読書にあてている。> つまり、毎日1時間以上読書している学生が4分の1ほどいるものの、読書はまったくしないという学生が半数ほどいることになる。
学校の図書館が泣いていますね。自宅の独学で授業に間に合わせているのでしょうかね。
>大学生なのに読書時間0(ゼロ)という学生が半数もいるとしたら、これは知識偏重というより知識軽視の教育が行われているというべきなのではないか。
そうですね。’詰め込み教育をするか・しないか’ の問題だけになりますね。それから先が見えていない。やはり、無哲学・能天気の国民ですね。
> (以下略)
.
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます