>米国は一貫して原爆投下について謝罪の意思がないようである。原爆投下は自らの被害を抑えるためには必要であったからようがないということだろうか。また米国は文民保護条約の批准にも積極的ではなく無差別大量殺人兵器をもつことに執着しているきらいがある。 ・・・・・・ 当時の日本は全国民が一丸となり戦時下で国民総動員法が発令されている。すなわち国民すべてが 文民ではなく戦闘員であると思われてもしょうがないくらいに婦女子・子供までもが竹槍や刀の玩具を利用したり戦意高揚の時代であった。そういう意味では無差別殺人兵器と我々は思っても、それを使用する側は、日本人はすべて戦闘員ではないかという危惧が」あったのである。
原爆投下、無条件降伏、それで私は‘一億総玉砕’をまぬかれた。命拾いをした。だから、私はトルーマン大統領の決断に感謝している。わが大日本帝国の政府は、東京大空襲の悲惨な結果を見定めた後も、我々臣民に生き延びる道を与えようとはしなかった。国がひっくり返った時にも、その野蛮な構想の責任者は出なかった。日本人には意思がなく、個人に対するリーズン (理性・理由・適当) の追求もなく、すべてはうやむやに闇の中へと葬り去られた。このような状態が永続するから、過ちを繰り返さないと誓っても、それは空念仏になるのである。ああ、むなしい。
犯人探し・捕り物帳は、我々日本人の娯楽である。だが、これらは全て事後の内容である。取り返しはつかない。飛行機事故が起こってから、その原因を熱心に追究するようなものである。こうした努力では、未然に事故を防ぐことはできない。防止策は未来時制の内容でなくてはならない。
悲惨な事故の発生を未然に防ぐ方策が賢明な策である。未来の内容を的確に予測して対処しなければならない。それには過去における未来の内容の誤りを綿密に調査する能力が必要である。
調査には、リーズンと意思を明らかにすることが必要である。リーズンという概念があれば、リーズナブルな答えというものが期待できる。それを示せば個人は説明責任を果たしたことになる。文章が無ければ、誰も説明責任は果たせない。とかく、この世は無責任となる。
日本人には、リーズンがなくて意思がない。だから、すべてはうやむやに闇の中に葬り去られることになる。日本語には過去時制も未来時制もないので、原因究明・再発防止のような調査は日本人にとって困難を極める。一向にリーズンには焦点が合わさらなくて、結果論ばかりが盛り上がる。日本人の謝罪要求は感情本位で、原因究明から発するものではない。一億総玉砕を決めたときと同じである。今でも考え方に進歩が無い。だから、過ちを繰り返す。
日本人には恥の文化があって、罪の文化がない。罪の意識のない日本人に贖罪をさせようとしたら、それは自虐になる。下とみられたことになる。理不尽な辱めを受けたと考えて憤る。深い反省には至らない。
罪の世界と恥の世界の住民は、相互理解が可能であるか。それとも両世界の住民には、住み分けが必要であるか。我々は、未来の世界について、よく考えてみなければならない。
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原爆投下、無条件降伏、それで私は‘一億総玉砕’をまぬかれた。命拾いをした。だから、私はトルーマン大統領の決断に感謝している。わが大日本帝国の政府は、東京大空襲の悲惨な結果を見定めた後も、我々臣民に生き延びる道を与えようとはしなかった。国がひっくり返った時にも、その野蛮な構想の責任者は出なかった。日本人には意思がなく、個人に対するリーズン (理性・理由・適当) の追求もなく、すべてはうやむやに闇の中へと葬り去られた。このような状態が永続するから、過ちを繰り返さないと誓っても、それは空念仏になるのである。ああ、むなしい。
犯人探し・捕り物帳は、我々日本人の娯楽である。だが、これらは全て事後の内容である。取り返しはつかない。飛行機事故が起こってから、その原因を熱心に追究するようなものである。こうした努力では、未然に事故を防ぐことはできない。防止策は未来時制の内容でなくてはならない。
悲惨な事故の発生を未然に防ぐ方策が賢明な策である。未来の内容を的確に予測して対処しなければならない。それには過去における未来の内容の誤りを綿密に調査する能力が必要である。
調査には、リーズンと意思を明らかにすることが必要である。リーズンという概念があれば、リーズナブルな答えというものが期待できる。それを示せば個人は説明責任を果たしたことになる。文章が無ければ、誰も説明責任は果たせない。とかく、この世は無責任となる。
日本人には、リーズンがなくて意思がない。だから、すべてはうやむやに闇の中に葬り去られることになる。日本語には過去時制も未来時制もないので、原因究明・再発防止のような調査は日本人にとって困難を極める。一向にリーズンには焦点が合わさらなくて、結果論ばかりが盛り上がる。日本人の謝罪要求は感情本位で、原因究明から発するものではない。一億総玉砕を決めたときと同じである。今でも考え方に進歩が無い。だから、過ちを繰り返す。
日本人には恥の文化があって、罪の文化がない。罪の意識のない日本人に贖罪をさせようとしたら、それは自虐になる。下とみられたことになる。理不尽な辱めを受けたと考えて憤る。深い反省には至らない。
罪の世界と恥の世界の住民は、相互理解が可能であるか。それとも両世界の住民には、住み分けが必要であるか。我々は、未来の世界について、よく考えてみなければならない。
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