>ダイヤモンド・オンライン >国家予算のおよそ5%を投じて撃沈した戦艦大和が生まれた「根源的な失敗理由」 >増田賢作によるストーリー・ >5時間・
>「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。
>そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。
>【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。
>「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
>※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
>戦争の悲劇を防ぐため 軍縮条約を結んだものの
>山本五十六(1884~1943年)は明治から昭和にかけての海軍軍人。
>生家は幕末に新政府と戦った長岡藩(新潟)の武家であり、成人した後、旧長岡藩の家老だった山本家に養子に入る。
>アメリカに駐在武官(現在の防衛駐在官)として赴任したり、ハーバード大学に留学したりした経験から、アメリカの国力の強さを認識。
>軍艦同士の決戦が主流だった時代から航空戦の時代を予見するなど、先見の明があった。
>太平洋戦争前には連合艦隊司令長官に昇進。
>日米の圧倒的な国力差からアメリカとの開戦には反対していたが、開戦が決定してからはハワイ真珠湾の奇襲作戦を立案し、真珠湾攻撃(1941年)を成功させる。
>しかし、その翌年のミッドウェー海戦(1942年)では敗れ、航空戦に必要となる空母を数多く失った。
>その後もアメリカとの戦いを指揮するものの、前線視察で赴いた南太平洋・パプアニューギニアのブーゲンビル島の上空で米軍の攻撃を受け、戦死する。
>現代の企業理念にも通じる「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という格言でも有名。
そうですね。日本人には意思というものが無いですからね。
>2005年に公開された映画『男たちの大和/YAMATO』は、反町隆史・中村獅童といった俳優が好演するなか、戦艦大和の壮絶な撃沈シーンが印象的でした。
>その戦艦大和は、史上最大の軍艦として、太平洋戦争開始直後の1941年12月16日に就役しました。
>第一次世界大戦(1914~18年)の後、戦争による悲劇を防ぐため、当時の5大国であった米・英・仏・伊・日の間で海軍軍縮条約(ワシントン海軍軍縮条約・1922年、ロンドン海軍軍縮条約・1930年)が結ばれました。
>なぜ日本は戦艦大和をつくったのか?
>しかし、1929年の世界恐慌後、国際情勢が不安定となるなかで海軍軍縮条約の効力は失われました。
>海軍軍縮条約では軍艦の製造が制限されていましたが、その効力が失われると、大国間で再び軍艦製造競争が起こることが想定されました。
>そのため、日本でも新しい軍艦をつくることになったのです。
>しかし、5大国のなかで国力が劣る日本は、数多くの戦艦はつくれませんでした。
>そこで、数は少なくても高性能の大砲を備えた“超大型の軍艦”をつくることで、他国に対抗しようという発想になりました。
>そして、「戦艦大和」が誕生したわけです。
>変化への対応が勝者を決める
>ところが、軍艦同士が大砲を打ち合って戦う時代は、終わりを告げることが予想されていました。
>第一次大戦後、急速に進化した航空戦闘機により戦艦を攻めるようになれば、どんなに大きな軍艦でも劣勢に立たされることが想像できたのです。
>このことを主張した人物こそ、海軍の幹部だった山本五十六でした。
>アメリカに留学した経験がある山本は、航空戦闘機の進化により戦い方が大きく変わることを予想していました。
>そのため、戦艦大和の製造にも反対したのです。
>過去の成功体験が現状判断を狂わせる
>しかし、日露戦争の日本海海戦(1905年)で、東郷平八郎(1847~1934年)が指揮する連合艦隊によってバルチック艦隊を破った成功体験がある海軍の多数派は、戦艦大和の製造に突き進んでいきます。
>その結果、当時の国家予算のおよそ5%もの巨費を投じて、戦艦大和を完成させたのです。
そうですね。成功体験は進歩の邪魔をしましたね。思考を停止している民族の悲劇でしたね。
>艦内は広く快適な冷暖房完備で、エレベーター、ラムネやアイスクリームの製造機まであり、戦中とは思えない豪華な食事もあって、「大和ホテル」と揶揄されるほどでした。
>※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。
‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。