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考える自由

2017-01-18 00:32:06 | 教育
>……….最近の若い社員は自分で考えない、主体性がないと批判されるし、たしかにそういう面もあろう。>しかし実際には、ほとんどの会社や組織で、それは歓迎されず、むしろ禁じられているのではないか。>学校と同様、発言は求められるが、そこで許容されるのは、正しい答え、よい答え、上司や会社の意向に沿う答えである。

同感です。上司や会社は、自分自身に都合の良い内容の発言を待っていますね。

>そこから外れることを言えば、怒られ、笑われ、諭され、無視される。

そうですね。他人から嘲笑されるような人間になってはいけない。

>そのように自由にものが言えないところに考える自由はない。>結局学校と同じく、仕事も与えられたことを決められたやり方で遂行するよう期待される。

不自由を常と思えば不足なし。

>時に創意工夫は必要だろうし、仕事によっては個々人の裁量が認められていることもある。>けれども、「なぜそうするのか」という質問や「こんな仕事をしたい」という希望は、なかなか受け入れられないだろう。

個人の内容は取り上げられませんね。希望は滅私奉公でなくてはいけないのでしょう。

>同様のことは高齢者になった後も続く。>生涯学習にせよ、養護施設での生活にせよ、高齢者は、自分でどうするかについて考える余地を与えられていない。>医療関係者や福祉関係者が彼らに必要なものを考えて提供する。

日本人には、自主・独立の気風に乏しいですね。

>しかし、高齢者自身の生き方が重要なら、当事者である彼ら自身が何をどうしたいのか発言をし、考える自由が与えられなければならず、また彼らはその自由を行使しなければならない。>そうでなければ、学校教育と同じく、自分で自分の人生の帰結に責任をとることなどできない。>人生の締めくくりの段階が、そんなことでいいのだろうか。

同感です。自己の意思を示せば当事者・関係者となる。意思を示さなければ、傍観者にとどまる。

>地域コミュニティでも同じことが繰り返されてきた。>地元住民が当事者として地域をどうするか考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。

同感です。国や自治体、企業は責任感なく決定する。

>何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らは責任をとらない。

意思を示せば責任がある。だが、日本人には意思がない。だから責任はない。この国がひっくり返った時にも、敗戦の責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>当たり前である。>それは彼らの人生ではないからだ。

人生は、処世術を使って護るもの。今だけ、金だけ、自分だけである。

>しかし当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。>しかしその結果は引き受けるしかない。

一億総懺悔のようなものか。消極的な人生か。

>まさに学校教育と同じである。

すべては、受け身・消極である。意思が無ければ、能動・積極はない。

>私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。

そうですね。我が国は、自国の安全を他国に委ねるべきでない。と同じこと。

>また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。

そうですね。それは親が子供にすることですね。大人の甘えは許されません。

>人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれない。

意思の無いところに責任はない。

>私たちに必要なのは、考える自由である。

自由とは意思の自由です。日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容で、時制は英文法にはあるが、日本語文法にはない。だから、日本人には意思がない。

>そしてそのためには、何でも話していい場が、つねにではなくても、どこかで絶対に必要なのである。

言論の自由は確保されなくてはなりませんね。

>しかもそれが対話を通して行われれば、自由が自分勝手になることも、責任が個人で背負う重荷になることもない。

対話が談合にならなければよいですね。なーなー主義では対話ができない。我が国の言語教育の問題です。

>お互いの間で承認され、共に享受するものになるのである。

うまくゆくと良いですね。


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