> 学校の授業で道徳という時間がありますが、いじめ対策や児童生徒の非行の防止において効果など期待できるはずがありません。>いじめや校内暴力などを発生させない事前防止が授業の目的なのでしょうが、そんなことが不可能なのは毎年のいじめの認知件数などを見れば明らかです。> 全ては政府の自己満足であり、単なる偽善行為に過ぎません。
それは、残念なことですね。
> 授業内容で道徳を教えればいじめなどは無くなるというのは、現場の当事者の苦しみを理解していないから出てくる上から目線の発想なのです。> 問題の根源を勘違いしている政府
勘違いがあれば、それは正さないといけませんね。現在の状態は、正しい策が見つからない時の窮余の策でしょうね。
>いじめ自殺などが度々問題になったことで児童生徒らの「道徳教育」の必要性が高まりましたが、授業での道徳教育などたかが知れているのです。> 善良な市民を育てるための授業という名目ですが、それならば道徳教育の目的とは一体なんでしょうか?
正解が明らかにされると良いですね。
>・・・恐らく子供達の心を学校のカリキュラムによって変化させて、全員を道徳心に満ちた天使のような人間にすることでしょう。
(略)
> 人間というのは公式通りに動く生き物ではありません。
無いない尽くしですね。
>善良な家庭で育ち、倫理観の高い子供であっても様々な要因が重なり何かの拍子に犯罪に走ってしまうこともあります。> 人間には自由意志があり、けっして方程式などのように決まったことだけに従う機械ではありません。> 道徳の授業を学校で増やしたから、子供はみんな善人になるのでしょうか? >・・・なるわけがありません。>学校に通っている児童生徒らを単なる機械の部品とみなしているからこその傲慢な姿勢だと言えます。> 道徳や修身などが存在したところで、他者を尊重しようとする意思の無い人間の心を入れ替えることなど誰にもできないのです。
いよいよ ‘無いない尽くし’ ですね。
日本人には、自分自身の考えというものがない。だから、考えは人それぞれであるという考えも存在しない。為政者は、空白になっている考えの部分を万人共通の内容で埋め合わせようと考えている。その努力が道徳や修身の詰め込み教育になっているのでしょう。道徳・修身をことさら話さなくても、罪の無い社会になれば、人々は幸福な生活を送ることができます。
> 子供に限らず、大人と呼ばれる学校の教師によるいじめなども珍しくもなんともないのが学校という場所です。> 道徳などの教育を受けて教師と呼ばれる指導者になった人間が、肉体的・精神的ないやがらせを行うという実態を私自身も経験上よく知っています。> 結局のところは「授業で道徳を教えたからとりあえず大丈夫だろう」などという政府の自己満足でしかありません。
そうですね。政府の努力の方向に間違いがあるのでしょうね。
> 学校という閉鎖的な空間に大量の人間を無作為に押し込めているという状態こそが、様々な問題を引き起こしているという現実に気付いてください。
そうですね。現実に気づいて、それにどう対処するかの問題ですね。
閉鎖的な空間と牢名主の出現のようなものですかね。我々の歴史の中には、そうした成り行きもあるでしょうね。
しかし、我々日本人の場合は、この社会問題が日本語という言語に深く関係していると私は思いますね。
日本人には、意思がない。そして、序列意識がある。
意思のある人は、加害者意識を持つ。加害者意識は、罪の意識になるほど成長することもある。だから、社会的に罪にストップがかかる。陪審員は、罪の有無を問われる。意思がなければ、罪悪感もない。それで、日本人には罪の意識がない。仏教・神道では、罪のない世界を求めていない。反省も、’過ちは繰り返しはせぬから’ という歌詠みの程度になる。これでは、犯罪にストップがかからない。無意志の人には、罪を抑制する内面の力がない。だから、道徳の徳目を教えて、外面から抑えることになる。これが、政府の方針でもある。
その上に、日本人は序列争いに執念を燃やす。’お山の大将、俺一人’ になりたいのである。序列社会における出世欲は必然である。社会的に序列はハッキリとしていても、意思がないから責任感は存在しない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。これが、根本の問題でしょうね。
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