>激変する「成績が良い」の基準――世界に遅れていた日本の初等中等教育が変わる >10年後、社会で通用する人間になるために必要なことは何か >PRESIDENT Online >「ニューズウィーク日本版」
><英語が必修になり、パソコン/タブレット端末は1人1台配布――教育の「大改革」が進んでいる。 >これから10年後、社会で通用する人間になるために必要なことは何か:ニューズウィーク日本版ウェブ編集部>
>小学校で英語が必修になり、小中学生全員にパソコンもしくはタブレット端末が配布されていくなど、教育現場の大改革が起きている。
それは明治維新のようなものですかね。
>「グローバルな技術革新への登竜門を子どもたちへ」との理念を標ぼうする「ギガスクール構想」である。 >31歳から本格的に英語を学習し、米国のグーグル本社で副社長を務めた村上憲郎氏は、このギガスクールで育った第一世代が、これから10年後、日本の「会社を大変革させる」と言う。
それはわが国には珍しいことですね。
>「成績が良い」の基準が、劇的に変わるからだ。 >その基準とは何なのか。 >これから求められる優秀な人材とは何か。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
>大ベストセラー『村上式シンプル英語勉強法』でも知られる村上氏はこのたび、『Googleが教えてくれた 英語が好きになる子の育てかた』(CCCメディアハウス)を出版。 >英語力の伸ばし方だけでなく、子供も大人も目的をもって自分を更新し続ける米国流教育の秘訣をわかりやすく記した同書から、3回に分け抜粋する(この記事は第2回)。 >ギガスクール構想――日本の教育の大改革 >いまから2、3年ほど前の話です。 >世界各国がオンライン授業を導入しはじめたとき、「日本だけがうまくできないのではないか」という話になりました。
日本特殊論の始まりですね。
>いまでも日本のデジタル技術の導入や活用の遅れは問題になっていますが、すでに世界との差は認識されていたわけです。
私も30年ほど前にわが国の学校におけるPCの普及の悪さをアメリカ人から指摘されたことがありますね。
>そこで文部科学省が予算をつけ、2020年の3月31日までに、小中学生全員にパソコンもしくはタブレット端末を配布することが決まり、実行しました。 >これが「ギガスクール構想」と呼ばれるプロジェクトです。 >「ギガ」は「GIGA」で、「Global and Innovation Gateway for All(グローバルな技術革新への登竜門を全員の子どもたちへ)」の意味を持つ名称です。 >ということで、日本の教育の世界ではすでに大きな変革がはじまっています。
‘ギガスクール’ とは大きな改革を想像できて良い名前ですね。
>もちろん、初年度の2021年度は、新しい文房具(パソコン)を使いこなすのが精いっぱいでした。 >先生も生徒たちも、四苦八苦だったようです。 >しかし、徐々に、単に新しい文房具を使いこなすといった段階から、さらに先へ進み、新しい教育の試みがはじまっています。 >「先生が教える」という考えはもう古い >新しい教育の何が「大改革」なのかといえば、明治維新以来150年続いてきた、「先生が一方的に何かを教える」という教育のありかたが、変わってしまうということです。
我が国のSpoon-feed [<生徒に> (自主性を持たせずに) 押し込むように教える] は廃止されますかね。
Spoon-feedが良くないことは以前から知られていたはずですが、一体わが国のどなたがこの度それを理解されたのですかね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がないので、リーズナブルな答えは期待できないですね。日本人に期待できるものは歌詠みですね。歌は気分・雰囲気を伝えてくれます。
>たとえば「分数の割り算をどうやるか」。 >従来は、先生が子どもたちに「割る数の分母と分子をひっくり返して掛ける」と一方的に教えていました。 >しかしこれからは、「分数の割り算をどうやるか」について、子どもたちが次の授業までに考え、スライドショーにまとめて、クラスで発表する。 >それから皆でディスカッションして、正しいやりかたにたどり着く。 >そんな流れの授業が、だんだん定着していくものと期待されています。
自分の意見を述べるところが大切ですね。
>すでに世界の初等中等教育では行われている、先生が教えるのではなく生徒が教える「反転授業」、スライドショーでプレゼンして、それを皆でディスカッションして、正しいやりかたにたどり着く「アクティヴ・ラーニング」が、当たり前のように日本の小学校、中学校でも行われるようになっていくわけです。 >これはじつはものすごい変化です。
そうですね。でも、そんなに簡単にゆくものですかね。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、以下のように述べています。
日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、一人のナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。戦後の復興も同じである。戦後の復興はだれが立案し指導したのか。ある罷免された大使が、ドゴール、毛沢東、ネールの名はだれでも知っているが、吉田茂などという名は特別な知日家を除けばだれも知らないと言っているが、これは事実である。(引用終り)
>明治維新以後150年間、学校教育は先生が「自分が習ったこと」を生徒たちに教え、それを生徒たちが次の世代に引き継いでいくという形で教育が行われてきました。 >いまの先生は、自分が生徒だったときに習ったことを、同じようにあなたのお子さんに教えています。 >その先生が子どものときに教わった先生も、やっぱり子どものときに自分の先生から教わったときと同じようにやってきました。 >だから、もし明治時代の先生を現代にタイムスリップさせ、「こういうことを教えてほしい」とお願いしても、ごく普通に、2020年代のいまでも先生ができてしまいます。 >当時との違いと言えば、黒板の色が変わって、さらには電子化されて便利になったということくらいです。
日本人の期待は ‘何事もお変わりないことが良いことです’ というものですからね。わが国の文化は形式があって内容が無い。内容が無いのは思考停止の結果ですね。だから、日本人はそれだけ余計に形式に拘ることになる。そして改革が進まない。改革が進むことがあれば、それは怪我の功名のようなものですね。とにかく良い結果が生ずることを祈るばかりですね。他力本願・神頼みか。
>あとは「最近の親は何かとうるさいから、生徒の扱いには注意してね」とアドバイスするくらいでしょうか。 >いままでとは違う、これからの「できる子」 >しかしこのギガスクールの時代、日本の教育のありかたは、根本的な変革を余儀なくされます。 >結果、起こるのは、一般的にいう「エリート」とか「成績のいい人」の基準が、いままでとは大きく変わってくるということです。 >これまでは、先生が一方的に教えてくれる「正解」をできるだけたくさん頭に覚えた生徒が、「成績が良い」生徒ということでした。
そうですね。正解を言い当てる生徒が良い生徒でしたね。
>しかしこれからは、違います。 >ギガスクールでは、成績のいい子の基準は次のようなものになります。 >・問題を発見できる子 >・その問題をプレゼンできる子 >・正解があるかどうかもわからない問題の正解を求めて探究できる子 >・探究の結果をプレゼンできる子 >・プレゼンを聴いて、質問のできる子 >・自分の考えを積極的に述べてディスカッションできる子
成績の点数は付けにくくなりますね。序列人間の悩みになりますね。
>10年もすれば、このギガスクールで育った第一世代が、大学卒の新入社員として、会社に入ってきます。 >このように育った世代が、入社3年目にして、早くも会社を大変革させる。 >そのような状況が、この国のいたるところで起こってくるのではないでしょうか。
そうでしょうね。夢は広がるばかりですね。
>「先生から教わるばかりでない教育」を受けてきた若者たちは、問いを見つけ、その問いについて自分の頭を使って考える、つまり思考する習慣ができているからです。
これまでの日本人は思考を停止していましたからね。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>ニューズウィーク日本版
>当記事は「ニューズウィーク日本版」(CCCメディアハウス)からの転載記事です。
(略)
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