>AERA dot. >「叱られるから」ではなく主体的な学びへ 若手教育長が明かす「学びの転換」の現在地 >佐藤智によるストーリー・ >14時間・
> 不登校の子どもの増加や、先生が忙しすぎる問題など多くの課題を抱える教育現場。
>一方、教育長自身のダイバーシティーは進まず、50代未満は0.3%だ。そんな少数派の40代の教育長が進める「学びの転換」とは──。
>神奈川県鎌倉市教育長・高橋洋平さん、石川県加賀市教育長・島谷千春さんが語る。
>AERA 2024年12月9日号より。
>* * *
>──教育長とはどういった役割ですか。
>高橋:多くの人は、何者?って感じですよね。
>自治体の首長から任命される地域の教育政策の責任者が教育長です。
>島谷:私は子育て中ですが、自分が教育長になるまで、自分の子どもが通う学校の自治体の教育長が誰なのか、意識したことはなかったです(笑)。
>高橋:アメリカでは博士号を持った“プロ教育長”が自治体を渡り歩くことが一般的。
>一方で、日本は退職した教員や行政職員が就くことが多く、女性は4%ほど、50代未満は0.3%しかいません。
>もちろん、尊敬する教育長の先輩方はたくさんいます。
>ただ、現在は不登校の小中学生が約34万人まで増加するなど、子どもたちの学びを転換すべき時期。
>教育長のリーダーシップへの期待も大きくなっています。
>島谷:そもそも首長に教育への思いがないと、教育長の人選には反映されません。
>ダイバーシティーが生まれなかったのは、教育に重きを置いた自治体トップが選ばれなかった社会の構造的な問題もあります。
>加賀市長は「地方創生を果たすためには産業構造を変えていかなければならない。
>そのためには、遠回りだけれど人材育成が最優先」と熱い思いを持っていて、私の就任にもつながっています。
>高橋:最近では私たちだけでなく、民間企業出身の教育長が誕生したり教育長を公募する自治体が出てきたりして、全国的に変化が起きつつありますよね。
>島谷:教育の現場は、論理的な正しさだけでは、一ミリも動きません。
>学校は人を、ましてや子どもを相手にする仕事。
>理屈だけでなく「情」も大事にして、先生が自ら動き出せる環境を整える舵(かじ)取りが私たちには欠かせません。
>高橋:トップダウンというより、学校現場からの変容を支え、助け、励ますリーダーシップが大事です。
>現状を受け止め、心理的安全性を高めた上で対話し、現場が腹落ちしていかないと進んでいけないと思います。
>■外発的な理由ではなく、内なる火燃やし続ける学び
>──学びの転換をどう進めていますか。
>島谷:加賀市では「BE THE PLAYER」というビジョンを掲げ、全校にポスターを貼って、教員や子どもなど全員の共通言語にしています。
>受け身ではなく、すべての人がプレーヤー・当事者として、自分事として学び、考え、動き、生み出し、そして社会を変えるという意味を込めました。
>学校は「こんな子どもを育てたい」と心底思えれば、それに基づいた創意工夫は大得意。
>その点は本当にプロだなと感心します。
>高橋:ビジョンという旗を立てることは非常に重要ですよね。
>鎌倉市では子どもも含めてたくさんの人と対話して、ある先生から出てきた「炭火」というキーワードをビジョンに掲げようとしています。
>炭火は長くじわりと燃え続けます。
>「テストがあるから」「叱られるから」といった外発的な理由ではなく、自分の内なる火を燃やし続けて、生涯にわたって主体的に学び、変化し続けられる子どもを育てるという思いを込めています。
>先生に教えられる授業から転換し、子どもが自ら学びをつかみ取っていく「学習者中心の学び」を目指しています。
>これまでの教育界は忙しさのあまり、教育の目的やビジョンに立ち返らず、表出したトラブルへどう対処するかに追われ、疲弊してきました。
>鎌倉市では施策や手段で迷った場合には、北極星となる「炭火」「学習者中心の学び」に立ち戻り、対応しています。
>(構成/教育ライター・佐藤智)
>※AERA 2024年12月9日号より抜粋
アメリカでは、教員になった人は後一定の年数以内に修士号を獲得しないと教職を追われます。その年数は、ニュウヨーク州では5年、オレゴン州では10年です。
日本の政治家は子供に勉強をさせよとする。アメリカの政治家は大人に勉強をさせようとする。だから日米が戦争をすると子供と大人の戦争になる。どちらが勝つか。
子供の勉強は他人の受け売りとその後追いである。大人の勉強は自己の見解を論文にして示すことにある。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
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