(略)
> 右向けといったらハイといって右を向き、左向けといったらハイといって左を向く。>そういう下役は、人間ではなくて牛か馬と同じです。
そうですね。日本人にアニマルにも、意思というものがない。
> 上役だけが人間、つまり一方は主人であって一方は奴隷なのです。
日本人の上役にも意思がない。しかし、上役には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。上意下達である。下位の者は、上位の者の恣意で動くのである。
>こういう関係の中では、下役はほんとうに仕事をしているとはいえないのです。> 人間と牛や馬、つまり獣(けもの)とどこが違うかといったら、人間は考えることができる、つまり、人間には創造性がある、ということです。
そうですね。非現実 (考え) の内容を文章として表現するには、文法に時制というものが必要ですね。
>この創造性ということのために、人間というものは楽しくやろうとしているわけです。>それを、上役だけが人間で、下役は牛か馬だから、お前たちは何も考えなくていいのだ、おれのいうとおりにすればいいのだ、というふうにもしやったとするならば、下役はこの創造性のはけ口を、どこかに探すに決まっています。>それがレジャーであったり、あるいは娯楽であったりするわけです。
そうですね。
> 何も娯楽やレジャーが悪いといっているわけではありません。> 仕事の中で抑えつけられるからそっちへ逃げるというのはどんなものだろうかといいたいのです。
そうですね。だが、仕方のない状態ですね。
> 勤め先で、いろいろ仕事の話をしてもシーンとしている人が、ひとたびマージャンとかあるいは魚釣りの話になったら、まるっきり人間が変わったようにイキイキとしてくるなどというのは、明らかにその人は仕事の上で考える余地を与えられていない証拠です。>つまり、牛馬扱いをされているわけです。>ところが、それでいいではないか、創造性を仕事のうえで発揮しないでも、レジャーで発揮したっていいじゃないか、という人があります。>その人は、仕事の報酬、つまり給料というものを、我慢をして仕事をするから、その償いとしてもらっているのだという考え方をしているのではないでしょうか。
そうでしょうね。だから、日本人は、’頑張って’、’ご苦労様’ と言い続けているのでしょう。
>つまり、仕事というものはおもしろくないものだ、いわれるとおりに動ていればいいんだと、そういうことになってくるわけです。> 私が東芝におりますときに、ある重役から「どうだい仕事おもしろいか」といわれました。>私は「ハァ、もうおもしろくておもしろくて、研究を三度の飯より楽しくやっております」とこう答えましたら、 「そうか、そんなら給料はいらんな」ここにも、仕事というものはおもしろくないものだという前提があるわけです。>それはとりもなおさず、考えること、創造性というものを認めていないということなのです。
そうですね。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容になる。それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。それぞれの世界は、はじめは白紙の状態である。しかし、白紙の状態は、誰しも気になることである。そこで、人間は、めいめいに ‘考える人’ になる。自分自身の手で、その空白を埋めて行く。三世界の内容は、何処までも展開が可能である。これは、世界観 (world view) と呼ばれているものである。自己の世界観を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神の持ち主ということになる。
英文法には、時制というものがあり、英米人には、世界観がある。だから、批判精神もある。
日本語文法には、時制がなく、日本人には、世界観がない。だから、批判精神もなく、時流に流されている。
非現実の内容を現実の内容にすることができれば、それは創造である。現実の内容を現実の内容として再現すれば、それは模倣である。特亜三国 (日本・中国・韓国) の民は、模倣が得意で、創造が苦手である。
>それから、レジャーというようなものでは肝心かなめのもうひとつのものが抜けています。>それは人間の社会性から来ている、喜ばれたい、という本性です。
そうですね。
> 人間は一人で生きているわけではありません。>このごろマイホーム主義とかいいますが、つまりこれは、奥さんがあり、子供があって、子供に喜ばれたい、奥さんに喜ばれたいと思って、一生懸家庭をつくっているわけなのでしょう。>ましてやそれが家庭ではなくて、勤め先の一緒に仕事をしている仲間、あるいはそのまわりの組織、あるいは国家、あるいは人類というようにだんだんひろがってきたらどうでしょう。
そうですね。しかし、日本人には世界観がないから、マスタープラン、グランド・デザインのような構想は、想定外となりがちですね。目先・手先の事柄に、とかく注意が集中しがちです。
> 結局、その喜ばれる範囲はちがうかもしれないけれども、要するに人間は、その本性として喜ばれたいという気持ちがあるのです。
それは、有りますね。
(略)
>このように、働きたい、考えたい、喜ばれたい、人間性はこういうところにあります。>これを生かしてやれば、意欲というものはますます強くなっていきます。>それを手足をくくってしまって自由を与えないでおいて、そして責任を果たせ、責任をとれといっているのは、いいことではないのです。
そうですね。自由とは、意思の自由のことである。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものが無い。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。
意思の無い人には、責任がない。これはちょうど死刑執行人のようなものである。彼らは、人が死んでも、殺人罪に問われることはない。彼らには、殺意というものがないからである。意思の無い人 (日本人) には、加害者意識というものがない。罪の意識もない。だから、とかくこの世は無責任になる。
> 『石橋を叩けば渡れない。』生産性出版
(略)
> 創造力を発揮して、人を喜ばせる生き方を目ざしたい。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解する必要がありますね。さすれば、我々は、自己の世界観と意思を文章にして広く世界に示すことができます。我々の考え (非現実) に国際的な賛同を得て、未来社会の建設に着手することが可能です。英米人は日本語を話していても、日本人特有の閉塞感に襲われることはありません。考え方は、いくらでもあるからです。現実の内容には、正解が一つしかない。しかし、非現実の内容には、正解が多数ある。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、人それぞれである。正解は無数にある。
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