>自由・平等・博愛、あるいは個人主義・民主主義、あるいは権利(人権)という観念、これらは全て、現実にはどこにも存在しない、頭の中だけの架空観念に過ぎない。
>現実には存在しないということは、事実に反する観念だと言い換えることもできる。
事実で無ければ嘘である。’嘘も百回繰り返せば真実となる’ という人もいる。だから、語られた事実は事実そのものとは異質なものであることがわかる。語られた事実のみを暗記させられている人は、嘘で固められた人生を送る怖れがある。聞くと見るとでは大違い。語られた事実は、誰の手を経ることもなく自らが得た(firsthand) 体験ではない。だから、語られた事実に対しては、一応、嘘ではないかと疑ってみる必要がある。正しい知識を得るためには、みずから体験する努力が必要である。
日本語は現実用の言葉である。実況放送・現状報告のための言語である。書いてある内容が現実に存在しない。現実でないものは事実ではない。事実でないものは語る価値が無い。日本語には、時制がないから、非現実の内容は語れない。日本語のみを知る人は、現実肯定主義の人になる。
現実用の言葉で非現実の内容を語ればどうなるか。それは嘘になる。嘘を流布させようとする試みは社会に害毒を流す。このようにして、我が国では啓蒙思想家は否定される。
非現実の内容を現実に変える努力をすることにより創造は生まれる。これは英米の目指す高等教育である。現実を現実の中で再現すれば、それは模倣になる。模倣ばかりの励みでは、夢も希望もない。北東アジア (日本・中国・韓国) における猿まねの競争は、とかく過酷なものになりがちである。
時制ある考え方 (言語) を学び、自分自身の世界観を得て、国際的な未来社会の建設に互いに協力できるようにしよう。
>近代思想は、ユダヤ・キリスト教の観念パラダイムを踏襲しているが、神であれ、個人であれ、権利であれ、それらは全て、現実否定→自己正当化という思考回路が生み出したものである。
>つまり、貧困や抑圧に満ちた現実世界を否定し、(現実世界の変革に向かうのではなく)頭の中に「神」や「自由」や「権利」etcの観念を創出して、その観念に寄り縋るという思考態度である。
非現実の内容は、現実否定になりがちでしょうね。自己正当化のできる非現実の内容を主張しないといけませんね。
観念 (考え) の創出を嫌っているようですね。脳内にある観念の内容を脳外で実現できれば、それは人間固有の偉大な創造力を発揮したことになるでしょう。
実社会の修復だけでなく、画期的な未来社会の建設に取り掛かる必要がありますね。建設的な発想法には、世界観が必要です。いくつもの世界を描いて見せる技術が必要です。使用言語に時制のあることが必要ですが、残念ながら日本語には時制がありません。
>セム人や白人がそのような思考方向に向かったのは、4200年前~3200年前、コーカサス周辺での皆殺しの略奪闘争の連鎖によって、共同体が完全に破壊され、再生の現実的な立脚点を失ってしまったからである。
そうですか。私には、よくわかりませんね。
>従って、彼らには、現実世界の変革に対する不可能視が刻印されており、現実とは逆の非現実の世界に救いを求めることになる。
>近代観念も、その延長上に生み出されたので、極めて深刻な欠陥を孕んでいる。
現実肯定主義者には、非現実という言葉さえない。あるのは嘘のみ。
観念 (考え) には、正しい (矛盾を含んでいない) ものと、そうでないもの (空想・妄想) がある。
非現実に関する正しい考え方を身に着けよう。さすれば、高尚な人間になれる。
現実肯定主義者には、哲学 (非現実) の勉強はできませんね。時制のある文章がないと非現実の内容の世界は描くことができません。英米の高等教育機関で勉強しても挫折することでしょう。
哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) を目指す教育を受けてめでたく成就しても、無哲学・能天気の社会に帰ってきては、相手にされない。何の役にも立つことはない。
このような事情があるので、我が国の学生には、留学は人気がないのでしょうね。国際協調にも支障をきたすので、極めて深刻な欠陥を孕んでいるといえます。
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>現実には存在しないということは、事実に反する観念だと言い換えることもできる。
事実で無ければ嘘である。’嘘も百回繰り返せば真実となる’ という人もいる。だから、語られた事実は事実そのものとは異質なものであることがわかる。語られた事実のみを暗記させられている人は、嘘で固められた人生を送る怖れがある。聞くと見るとでは大違い。語られた事実は、誰の手を経ることもなく自らが得た(firsthand) 体験ではない。だから、語られた事実に対しては、一応、嘘ではないかと疑ってみる必要がある。正しい知識を得るためには、みずから体験する努力が必要である。
日本語は現実用の言葉である。実況放送・現状報告のための言語である。書いてある内容が現実に存在しない。現実でないものは事実ではない。事実でないものは語る価値が無い。日本語には、時制がないから、非現実の内容は語れない。日本語のみを知る人は、現実肯定主義の人になる。
現実用の言葉で非現実の内容を語ればどうなるか。それは嘘になる。嘘を流布させようとする試みは社会に害毒を流す。このようにして、我が国では啓蒙思想家は否定される。
非現実の内容を現実に変える努力をすることにより創造は生まれる。これは英米の目指す高等教育である。現実を現実の中で再現すれば、それは模倣になる。模倣ばかりの励みでは、夢も希望もない。北東アジア (日本・中国・韓国) における猿まねの競争は、とかく過酷なものになりがちである。
時制ある考え方 (言語) を学び、自分自身の世界観を得て、国際的な未来社会の建設に互いに協力できるようにしよう。
>近代思想は、ユダヤ・キリスト教の観念パラダイムを踏襲しているが、神であれ、個人であれ、権利であれ、それらは全て、現実否定→自己正当化という思考回路が生み出したものである。
>つまり、貧困や抑圧に満ちた現実世界を否定し、(現実世界の変革に向かうのではなく)頭の中に「神」や「自由」や「権利」etcの観念を創出して、その観念に寄り縋るという思考態度である。
非現実の内容は、現実否定になりがちでしょうね。自己正当化のできる非現実の内容を主張しないといけませんね。
観念 (考え) の創出を嫌っているようですね。脳内にある観念の内容を脳外で実現できれば、それは人間固有の偉大な創造力を発揮したことになるでしょう。
実社会の修復だけでなく、画期的な未来社会の建設に取り掛かる必要がありますね。建設的な発想法には、世界観が必要です。いくつもの世界を描いて見せる技術が必要です。使用言語に時制のあることが必要ですが、残念ながら日本語には時制がありません。
>セム人や白人がそのような思考方向に向かったのは、4200年前~3200年前、コーカサス周辺での皆殺しの略奪闘争の連鎖によって、共同体が完全に破壊され、再生の現実的な立脚点を失ってしまったからである。
そうですか。私には、よくわかりませんね。
>従って、彼らには、現実世界の変革に対する不可能視が刻印されており、現実とは逆の非現実の世界に救いを求めることになる。
>近代観念も、その延長上に生み出されたので、極めて深刻な欠陥を孕んでいる。
現実肯定主義者には、非現実という言葉さえない。あるのは嘘のみ。
観念 (考え) には、正しい (矛盾を含んでいない) ものと、そうでないもの (空想・妄想) がある。
非現実に関する正しい考え方を身に着けよう。さすれば、高尚な人間になれる。
現実肯定主義者には、哲学 (非現実) の勉強はできませんね。時制のある文章がないと非現実の内容の世界は描くことができません。英米の高等教育機関で勉強しても挫折することでしょう。
哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) を目指す教育を受けてめでたく成就しても、無哲学・能天気の社会に帰ってきては、相手にされない。何の役にも立つことはない。
このような事情があるので、我が国の学生には、留学は人気がないのでしょうね。国際協調にも支障をきたすので、極めて深刻な欠陥を孕んでいるといえます。
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