>現代ビジネス >ほとんどの日本人が見落としている「重大な事実」…日本哲学が私たちの生活に役立つ「意外すぎる理由」 >藤田正勝の意見・ >18時間・
>明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。
>「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。
>そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。
>『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
>※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
>とある学生の素朴な疑問
>そもそも日本の哲学を学ぶ意義はいったいどこにあるのだろうか。
>それを知ることで何を得ることができるのであろうか。
>そのような疑問を抱く人もいるかもしれない。
>簡単に答えることのできない難しい問題である。
>その点について考えるために、かつて私が日本哲学史の講義をしていたときに、一人の学生から受けた質問を手がかりにしたい。
>その学生は、哲学は普遍的な真理をめざすものであり、それに「日本の」という形容詞を付するのは適切なのだろうかという質問をした。
>もっともな質問であると思う。
>確かに哲学は、その成立以来、普遍的な原理の探究をめざしてきた。
>しかし普遍的な原理の探究であることは、ただちに使用される言語の制約から自由であるということを意味しない。
>私たちの思索は、私たちの文化・伝承の枠のなかでなされるのであり、一つ一つのことばのズレ、その集積としてのものの見方や文化そのものの差異が、「真なる知」を問う問い方、答えの求め方に影響を及ぼさないとは、とうてい考えられない。
>ギリシアの哲学と、それを受け継ぐヨーロッパの哲学こそが唯一の哲学であるという考え方もあるが、私はギリシアの哲学もフランスの哲学もドイツの哲学も、それぞれの言語を用いてそれぞれの文化・伝承の枠のなかでなされる営みであり、その制約から自由ではないと考えている。
>どのような問題について論じるのであれ、それぞれの長い歴史のなかで形作られてきた自然や神、人間や歴史をめぐる理解を踏まえて答が探究されていくのであり、そうした前提からまったく離れた──言わば無菌の──時空間のなかで思索がなされるわけではない。
>私たちの知は私たちがものを見る視点の影響をつねに受ける。
>言いかえれば、私たちがものを見るとき、つねにその視点からは見えないもの、あるいはその視点設定のゆえに覆い隠されるものが生まれる。
>そのとき重要なのは、異なった見方を否定したり、排除したりすることではなく、それと対話することである。
>日本の哲学はその対話に大きな寄与をすることができる。
>伝統を背負いながら、自ら主体的に思索するからこそ、他の文化・伝統のなかで成立した哲学と対話することができるし、哲学のより豊かな発展の可能性を見いだしていくことができる。
>そのことを視野に入れながらこれまで日本哲学史の講義を行ってきたし、本書でもそれを意識しながら話を進めていきたい。
>それでは日本の哲学はこの対話においてどのような寄与をなしうるであろうか。
>独自性はどういう点にあるだろうか。
>それはこの本のなかで少しずつお話ししていくが、あらかじめ簡単に各講の内容について記しておきたい。
>日本の哲学を学ぶとはどういうことか
>日本の哲学について知り、学ぶ意義はどこにあるであろうか。
>哲学とは私たちのものの見方や考え方に対する反省であると言うことができる。
>私たちがどのように物事をとらえ、どのように感じ、どのように考え、どのように行為しようとしてきたのか、あるいはしようとしているのかを知る営みである。
>日本の哲学者たちの思索はこの営みの軌跡である。
>それは、いまを生きる私たちにとって無縁のことではなく、深い関わりをもっている。
>日本の哲学者たちの営みから私たちは私たちがどのように生きてきたのかを知る手がかりを得ることができるであろうし、それはまた、私たちがどのように考え、どのように行為すればよいかを考えるためのさまざまな示唆を与えてくれる。
>読者の皆さんも本書を手がかりにして、自分自身のものの見方や考え方についてあらためてふり返っていただきたいと思っている。
>そしてそこから、別の考え方(それは具体的な対話を通して知る考え方の場合も、書物を通して知る考え方の場合もあるであろうが)と対話し、自らのものの見方や考え方をより豊かなものにしていっていただきたい。
(略)
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供に哲学を獲得するための教育である。子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。かれらの文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。未来時制を使って自己の意思を表すこともできるようになる。すると加害者意識も経験することになる。それが高じて罪の意識も理解できるようになる。深い反省にも陥るので原因の究明が行われる。うやむやにならない。魂の救済を必要とする人も出て来る。贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。
哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本語は現実の内容だけを話す言語である。日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。嘘ばかりでは学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育のお陰である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。
当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっている。国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。
‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。
、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。、、、、、日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。
宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)
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