> 西洋であれば、本で読めば知ったことになる。
読書には理解が必要ですね。
>しかし東洋ではそうではない。 >いくら話を聞こうが、本を読もうが、人に説明できるまで理解できていようが、そんなことは一切関係ない。 >東洋では、いわゆる「悟った」という状態にならなければ「知った」と認められないのだ。
‘悟った’ は、社会性のある態度ではないですね。自分勝手な感じがしますね。自己中心的ですね。
>つまり東洋哲学というのは、その語られている内容そのものではなく、「いかに悟るか」という体系にこそ本質がある、というのだ。
内容を得るのは目的で、悟るのはその為の手段というのではないのですか。
>そう説明されれば、禅の公案なども理解しやすくなる。 >公案というのは例えば、 > * > 両手で拍手するとパチパチと音がするけど、では片手でやるとどんな音がする? > * >というようなものであり、身も蓋もない表現をすれば「絶対に解けないなぞなぞ」のことである。 >この公案が何故悟りに至る体系として利用されていたのか、というのが本書で説明されるのだが、東洋哲学のこういう背景を理解していれば非常に受け入れやすくなる。 >しかし著者は、東洋哲学のこのような側面を知識として知ってしまうことはむしろマイナスである、とも書いている。
東洋哲学では、詰め込み教育はマイナスになりますね。
>公案というのは「解けなくてウンウン悩み続ける」ということにこそ意味があるのであって、「公案って別に解けるつもりで出されてるわけじゃないらしいよ」なんてことを先に知ってしまえば、台無しだというのも理解できるだろう。
どんな意味があるかは問題ですね。
>だからこそ、 > * >そう、だから、ネット検索による知識の公開、そして本書のようなお手軽な入門書といったものは、本当は伝統的な東洋哲学を破壊してしまう存在なのだ >* >というようなことを書いているのだ。
それは急所を突いていますね。
>さらに東洋哲学の特徴としてもう一つ挙げられるのが「ウソも方便」である。 > 先程東洋哲学というのは、「いかに悟るか」という体系にこそ本質がある、と書いたが、この「ウソも方便」もまさにその一環である。 >つまり、> * > 東洋哲学はあらゆる「理屈」に先立ち、まず「結果」を優先する >* >のである。
拙速主義ですか。
>とにかく、なんでもいいから「悟る」ことが大事であって、その過程なんかどうだっていい、というのが東洋哲学だということだ。
それほど ‘悟る’ は大切ですかね。悟った人間は有能ですかね。
>この説明のために著者は、法華経に載っているというある例を引き合いに出している。
昔の話ですね。法華経は聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来しました。
>父親が家に帰ると家が燃えていたが、子どもたちは「火事」というものを知らず、家の中で遊んでいる。 >ここで子どもたちに、「火事というのはこれこれこういうもので危険だからそこからすぐに離れなさい」と言っても、理解できないかもしれないし、興味がないから聞かないかもしれない。 >でも火の手はもうすぐそこまで迫っている。 >どうする? >そこで父親は、「こっちに凄く楽しいおもちゃがたくさんあるよ!」と呼びかけた。>子どもたちはわーっと父親の元へと駆け寄り、命は助かった。
まさに ‘稲村の火’ ですね。
稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年(嘉永7年/安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として高く評価されている[1]。Wikipedia
>まさに「ウソも方便」であるが、これと同じようなことも東洋哲学もやっているのだ、という。
機転を利かせる話ですね。
>だからこそ、余計に東洋哲学は理解しがたいのだ、と。 > 本書を読んで僕は、「東洋哲学の理解出来なさ」について理解出来、まずその点が非常に面白かった。
無哲学・能天気になる為の修行ですね。
>今まで「悟り」というのがピンと来なかったが、「悟り」を体験したことがない人間がピンと来ないのは当然だし、また東洋哲学というのは、その「悟り」に至る様々な手法を開発してきた歴史そのものなのだ、という説明は、今までまったく知らなかった話なので興味深かった。
同感です。
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