現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。だから、楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話が分かる為には、その文章内容を文法に従って理解しなければならない。これは、骨の折れる作業である。だから、日本人は、通常理解をしない。その代わりに、忖度 (推察) をする。
理解と忖度は、似ていて非なるものである。理解は、話者の内容に関するものである。しかるに、忖度は、聞き手の勝手な解釈である。この聞き手には、現実直視ができていない。だから、話者には何の責任もない。そして、議論にもならない。
日本人は考えを話しても、それを忠実に受け取る相手がいない。だから、無哲学・能天気の人達の社会になっている。
‘哲学’ とは、’考え’ のことである。科学に関する考えは、科学哲学となる。歴史に関する考えは、歴史哲学となる。等々
私は、’哲学とは何か’ と言う質問を日本人のインテリから何回も受けた。英米人から、そのような質問を受けたことは一度もない。この違いは、哲学に対する両国民の親近感の違いを表しているのであろう。
現実ばかりの世界は、子供の時に過ごしている。大人になれば、考え (非現実) の世界にも関心が及ぶようになる。
非現実 (考え) の世界は、時制 (tense) のある文章内容として表現される。時制のある世界は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) となって表される。初めは、それぞれの世界は、白紙の状態にある。各自がその内容を自分自身で埋めて行く。それが、世界観 (world view) と呼ばれるものである。世界観は、果てしなく展開が可能である。自己の考えを基準にとって、現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を表したことになる。だから、自己の哲学を求めて、欧米人は高等教育機関に進学する。これは、他人の哲学の受け売りする為ではない。
日本語の文法には時制がなく、日本人には世界観がない。批判精神がなく、時流に流されている。現実の内容は、千変万化する。その中で、絶対の基準を求めようとして、日本人はあがいている。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。
日本人には時制がないので、非現実 (考え) の内容を文章にすることができない。だから、思考停止の状態にある。わが国に英米流の大学を導入しても、学生は四年間を遊んで過ごすことになる。それで、わが国の大学教育に対する評価が良くない。研究生活にしても、英米人との共同研究が成果を上げることにつながっている。
各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. 思考を停止している人には、オリジナリティ (本物・原物) がない。だから、外から哲学の入れ知恵をしてその場をしのぐ習慣になっている。日本人の場合、この借り物の状態が一生続く。かくして、貴重な自己の哲学を身に付けることはない。だから、他人の受け売り専門の人になる。そして、他者と口裏をわせて満足している。こうした人間を、あなたは信頼できますか。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
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