>80567 教育もゼロから新しい供給者を育成してゆく仕組みが不可欠 >高田敦 ( 30代 塾講師 ) 04/11/09 PM01 【印刷用へ】
>>受験生の多くは、実はもう従来の受験勉強や学歴がこれからの社会では役に立たない事を感じているのではないでしょうか。<<
そうでしょうね。序列社会の行き止まりですね。
>>それよりむしろ、「社会」を感じられる様な話や体験こそがこれからの役に立つと思っているのだと思います。<<
人間同士の対話が必要ですね。
>>これからの教育産業にかかる期待も、まさにそこなのではないでしょうか。<<
そうですね。しかし、その体得者が不足していることが問題ですね。
>> 私権社会を勝ち抜くための詰め込み学習なのではなく、これからの社会を対象化し、答えを示せる認識の提示こそが、今の教育に求められている内容であり、そこではじめて「学ぶ」活力も沸いてくるのだと思います。<<(80483)
そうですね。序列競争では、社会を対象とした答えを出せませんね。詰め込み教育は、役に立ちませんね。
> 2002年から文部科学省は、子どもたちの"学びからの逃走"の主因が従来の知識偏重の詰め込み教育や過激な受験戦争にあったとして、その反省を踏まえて新学習指導要領の志向する「ゆとり教育」のもとで「生きる力」を養おうとしてきました。
知識偏重の詰め込み教育は、序列判定の手段として使われてきましたからね。過激な受験競争は、その決着点になりました。
>また改訂では、「生きる力」の育成を目指し、各学校が創意工夫を生かして、これまでの教科の枠を超えた学習などができる「総合的な学習の時間」が新設されます。
現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣したことになります。
非現実 (考え) の内容を現実の中で実現させれば、それは創造したことになります。
我々日本人は、模倣力に優れ、創造力に乏しい。
>「総合的な学習の時間」は、これまでとかく画一的といわれる学校の授業を変えて、①地域や学校、子どもたちの実態に応じ、学校が創意工夫を生かして特色ある教育活動が行える時間、②国際理解、情報、環境、福祉・健康など従来の教科をまたがるような課題に関する学習を行える時間 、として新しく設けられています。>(具体的には自然体験やボランティア活動などの社会体験など体験的な学習や問題解決的な学習が行われます。 >また、グループ学習や異年齢集団による学習、地域の人々の参加による学習や地域の自然や施設を生かした学習などの多様な学習が行われます。)
暗記偏重でなく、自己の体験から学習することが必要ですね。自己の非現実 (考え) を文章内容にして示すことも必要ですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。経験のある ‘考える人’ になりましょう。
>しかし、現在も算数や数学、あるいは理科嫌いに象徴されるように、子どもたちの"学びからの逃走"は解決していません。
全ての学びは、序列競争のための道具立てですからね。子供たちは、序列競争から逃走しましたね。
(略)
>子どもたちの苦しみは、一刻も放置しておけませんが、かといってこの問題が、学校教育の制度的改変などで解決に向かうような根の浅いものとは、到底思えません。
そうですね。同感いたします。これは、序列社会の悲劇ですね。
> 子どもたちの不登校や問題行動、"学びからの逃走"傾向といった病理の背景には、学校に限らず地域や家庭など、社会総体が本来有しているはずの教育力の衰弱という根因が巣くっていると思います。>人とは、広い意味での教育(≒共認)によって人に成ることのできる存在であるとすれば、人が真に成熟していくためのシステムそのものが、現在のわが国では、機能不全に陥っているのではないでしょうか。
そうですね。日本人は、 ‘考える人’ にはなっていませんね。
>その機能不全が、子どもという最も弱くかつ鋭敏な部分に集約的に噴出しているのであり、その意味では「子どもは社会の鏡」であるという古来の知恵は、我々が教育について考える際に絶対に忘れてはならない鉄則だと思います。
そうですね。我々日本人は、鏡の中で序列思考の虜になっていますね。
(略)
>しかし、この教育再生需要に応えるには、旧観念を突き抜け新概念を自在に使いこなせるような供給者も不可欠になっています。
日本人には、日本語と英語の勉強が必要ですね。意思と世界観の内容は非現実 (考え) の内容であり、時制 (tense) のある文章内容として表現されます。英文法には時制がありますが、日本語にはありません。‘あるべき姿’ の内容も、未来時制の文章の中で表現が可能です。日本語には未来時制が無いので、英文で理解する必要があります。だから、我々には、語学の勉強が必要です。英米人は日本語を話していても、日本語による閉塞感に襲われることはありません。考え方は、他にもあるからです。我々は、日本語の世界に閉じこもることのないように努力することが必要でしょう。
>現在の教育の敗北は、大きな社会構造や供給者の認識を変えずに学校教育の制度的改変などで解決しょうとしている点であると思います。>教育も子どもたちの再生需要に応えつつ同時に供給者を育成する場でもあるはずで、そのためにはゼロから新しい供給者を育成してゆく仕組みが不可欠だと思います。
そうですね。努力しましょう。
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