子供のころ
母は躾が厳しかった
父が日中戦争に出征中は 特に厳しかった
朝 起きて顔を洗うと 手をついて おはようございますと挨拶する
ご飯前に子供たちが家の掃除をする
姉たちは 家中はたきをかけ箒で掃いて板の間は雑巾がけ
私は玄関掃除が当番だった
神棚と仏壇のは水やご飯をあげる
父の無事をお祈りしてから朝ごはん
ちゃぶ台に家族全員が座り 手を合わせて祈り
一斉にいただきますと唱えて食事が始まる
そのころは
子供4人だったが 家の中はいつも綺麗だった
私たちが学校に出かけた後は 和裁の内職で家計の補い
客様がいらしたときの挨拶など特に厳しかった
言葉遣いもよく注意された
汚い言葉 乱暴な言葉は使わないように
母に睨まれるだけでおとなしくなった
父の無事を願い 4人を育てるのに
張りつめた毎日
精一杯努力したのだろう
まだ20代の母
昭和20年8月15日に敗戦
父を残しての引揚げ
引揚げ寮での
生きるためのどん底生活だった
母は毎日食料を求めて買い出し
しつけはがらりと変わった
何も言わなくなった
言葉遣いが悪くても行儀が悪くても
生きるために必死の生活は
躾を失った
躾を忘れたまま 大人になった私
今では遅い
おはようございます
そうですね
衣食足りて・・・というように
人間の生きる最低限の事ができない時代
そんなこと言ってられなったんでしょうね
でも小さい頃のしつけは心に残っています
きっとお母さまはそれがわかっていたんではないでしょうか
戦後落ち着いてからは、
明るい朗らかな社交的な母になりました。
弟妹には甘い母だったようです。
60歳からが母の青春でした。
趣味で踊りをはじめ、旅行、友も沢山おり、
101歳で亡くなるまで皆に愛され幸せな生涯でした。