7月も今日で終わり
我が家の夏椿は今年も元気がなくて 花を見ることができなかった
雨がぽつりと落ちてきた庭に目をやると
葉陰に一輪ひっそりと咲いている
沙羅双樹 一日で儚く落ちる花だが 涼しげな姿に癒されている
7月も今日で終わり
我が家の夏椿は今年も元気がなくて 花を見ることができなかった
雨がぽつりと落ちてきた庭に目をやると
葉陰に一輪ひっそりと咲いている
沙羅双樹 一日で儚く落ちる花だが 涼しげな姿に癒されている
今日も真夏日が続くが サハリンも暑かった
帰宅してからの会話は 樺太時代の思い出ばかり
忘れていたことが次々に浮かんでくる
ゆっくり整理して記録していきたいと思う
真岡に向かう途中の野原に コーリンタンポポが残っていた
子供の頃 ロスケタンポポと呼んでいた
北海道でもあちこちで見かけるが 格別の思いで愛おしかった
はじめに
1945年(昭和20年8月15日)敗戦
まだ巡り会っていない前のことであるが
夫は樺太庁師範学校予科2年生 私は樺太庁豊原高等女学校1年生であった
夫は学校から一旦自宅に戻るように言われ 西能取岬(クリオン岬)の知志谷の実家に戻った
再び学校に戻ろうとしたが 豊原が空襲で戻れず
家族と漁船で稚内に引揚げる
私は父を残し 母・姉妹弟たちと 引揚げ船 小笠原丸に乗る予定だったが変更
貨物船白龍丸で 大泊(コルサコフ)から小樽へ引揚げる
67年ぶりに訪れる樺太
ハートランドフェリーアインス宗谷 で 稚内からコルサコフまで5時間半
海は穏やかだった
昨夜遅く帰宅する
思い出の地サハリンは 短い3日間の滞在だったが
懐かしい山や川 街など 昔の記憶を辿りながら巡ることができた
疲れたが 行って良かった
稚内にて ホテルからの風景
北防波堤から 昔 稚内~大泊間の連絡船が行来していた
10歳から12歳までの2年間
樺太の豊原市 今はロシア領サハリン ユジノサハリンスクに住んでいた
夫も5歳か~16歳まで住んでいた故郷である
1945年8月敗戦後に着の身着のままで引揚げて以来
長い間 近いけれど遠い異国の地だった
稚内からコルサコフ(大泊)まで夏の間フェリーが通うようになり
明日 思い出を辿る旅に出かける
72時間の短い滞在だが 67年ぶりの訪問に胸が躍っている
亡き両親と姉の写真を携えて
妹から写真が送られてきた
ハチドリが今年も沢山やってきて 毎日砂糖水を与えているそうだ
写真が小さくて肝心のハチドリは見えないが カラフルな容器が面白い
寒くなったら南(メキシコの方)に帰っていくそうだ
雨が少ないので 花へ水やりが忙しいらしい
H公民館のパソコン教室の日
暑中見舞いのはがき作成は簡単だが
エクセルでは もたもたしてサポートしてもらう
面白さに目覚め意欲モリモリ
お昼は 美味しいランチをいただきながら
女性部の詩吟の反省会をし 区切りがついた
23日に出かける旅行の準備をしなければ・・・
からっとした青空が広がる
陽射しは強いが 秋風のように冷たい風が吹き抜ける
大雪の山並みがくっきり見え心が躍るが 行く余裕がない
今日も慌ただしく動き回る
庭のアジサイが咲きだしたが 雨が降らず寂しそうな色
市役所から
後期高齢者医療保険と 介護保険料納入通知書が届いた
我が家はそれぞれに来るが 年々高くなり
介護保険料は 年金額が少ない私も同じ金額
介護保険は使わなくてすむように 心がけているのだが
だんだん暮しにくい世の中になっていく
北九州地方の豪雨は大きな被害をもたらした
他の地方は梅雨明けが発表されたが 今日も雨が降っているようだ
早く穏やかな川に戻り 元通りの生活になるよう 祈っている
アメリカ イリノイ州の妹からの便り
向こうは猛暑40℃くらいの日が10日も続き
雨量は平年の半分
トウモロコシ・大豆などに干ばつの被害がでているとのこと
ままならないお天気が うらめしく思える
去年の撮影会 滝野すずらん丘陵公園の滝