黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

今年も巡ってきた忘れられない日

2024年08月18日 | 戦争
今年も巡ってきた忘れられない日


今年もその時のことを記します




1945年(昭和20年)

樺太(サハリン)

8月9日ソビエトが宣戦布告し

13歳以下の男子と婦女子の疎開命令が出される

8月15日に敗戦 疎開は引揚げになった



豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいた我家は8人家族

 父(45歳)を除いた

母(38歳) 長姉(18歳) 次姉(14歳) 

私(12歳) 妹(9歳) 弟(4歳) 末妹(11か月

7人が 北海道の伯父宅へ引揚げることになった

 着替えと食糧だけ持ち

8月18日午後 豊原駅に向かった



奥地からきた貨物列車には

大勢の人たちが鈴なりに乗っている

国鉄勤務の父は 少しでも早く港の大泊へ行くよう

貨物列車に乗るように促すので 急いで乗った

父は見えなくなるまで手を振っていた



  戦争はもう終わったと 少し開放感を感じていたが 

奥地からきた人たちが口々に 

ソビエト軍に追われて命からがら逃げてきたと話すのを聞き

恐ろしさと緊張感を感じた



無蓋車のシートで覆われた荷物は大砲らしい

ゴツゴツと座り心地が悪いが我慢するよりない

汽車は度々停まる 真っ赤な大きな太陽が傾いていく

新場という駅で停車すると 長い間動かない



オシッコをしようと貨車を降り草むらへしゃがんだ時

ポーッと汽笛が鳴りゆっくり動き出した

慌てて走ったが高くて足が届かない

誰かが手を引っ張り上げて貨車に乗せてくれた

無我夢中夢中だった

手を差し伸べてくれたのは

豊原医專の学生さんだったと後で知った



暗くなって大泊に着いた
 
駅も道路も人々や荷物で溢れかえっている
 
姉が逓信局に勤めていた関係で小笠原丸に乗船予定だが
 
誘導され映画館で待つことになった
 
館内も溢れんばかりの人人人である

乗船の順番はまわって来ず 一夜を過ごした



再び夜になりやっと順番がきた
 
港までは遠かった 暗い夜道をひたすら歩いた 

母は末妹を背に大きな皮のトランクを持ち

 4才の弟は長姉に手を引かれ

 3人も後に続いた
 
母は荷物が重く途中捨てようとした時 

兵隊さんが現れ持ってくれた
 
やっと港にたどり着き 乗せられた船は 

小笠丸ではなく 白龍丸という貨物船だった



 コルサコフの港(大泊港)2012年7月



真夜中に白龍丸は出航した

稚内港がいつぱいで 小樽まで行くという 

20時間かかるそうでがっかりした

 甲板に張ったテントに数家族が入った

トイレはなく甲板の端でする

海は時化て嵐になった テントにも雨水が入る 

すぐに酔って動けなくなる 

夜が明け左側遠くに北海道の陸地が見えるが

20時間すぎても小樽に着かない

船倉の方へは行かないようにと言われていたが 

チラリ覗くと 地鳴りのようにわめき声が聞えてきた

大勢の朝鮮の人がお酒を飲んで騒いでいる

今まで虐げられていた鬱憤を晴らそうとしていたのだろう

 暴動がおこるのではないか恐ろしかった
 

再び夜が来た 

緊迫した声で目が覚める

船はすべて灯りを消しエンジンの音も聞こえない

暗闇の中で目を凝らすと 船長らしき人の指図する声

乗組員が慌ただしく動き回っている姿が異様に見えた

緊張が走る

誰かが「潜水艦がいるらしい」という

戦争が終わったのに・・・・まさかと思うが不安で恐ろしかった

船はエンジンを止めて漂ったまま



どのくらいの時間だったか覚えていないが

危険が去ったらしい

 夜が明け船は動きだした
 


小樽の港が見えた時は 

疲労と船酔いで歩くのもやっとだった

嬉しいと言うよりホッとした


 

国籍不明の潜水艦に沈められたのを知ったのは 

ずっと後の事である
 
我たち一家は幸運だった 
 
父は三年後痩せ衰えて帰国した 




79年後少女は 91歳になった

年とともに鮮明になる引揚げの時の記憶


戦争はいけない 犠牲者の冥福を祈る





あの時小笠原丸に乗っていたら 

生まれていなかったであろう  孫の誕生日でもある

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年 引揚げ前日のこと

2024年08月17日 | 戦争
戦争に負け 樺太 豊原市(からふと とよはらし)から


 8月18日に 北海道の伯父宅に(父の兄 渡島管内 木古内町)


引揚げることになった


父が国鉄に勤めていたので 荷物は6個送れるという


衣類 教科書など 重いものは


荷造りして送る


長姉が気に入っていた オーバーをリックに入れようとしたが

母は止めさせて 行李に入れた



リックには着替えと 食べ物(大豆の炒ったの)


いざというときに貯めてあったもち米

畑で取れたばかりのエンドウ豆を入れて ついたお餅を

手分けして入れた



大人たちは緊迫感でいっぱいだったが


12歳の私 10歳の妹は 空襲の心配もなくなり


大好きな伯父の家に行けると 嬉しくて


余所行きの半袖のワンピースを出し
(戦争中は長袖にモンペかズボン  半袖 スカートはダメ)


色紙の 紙ぼっちゃん を持とうとして たしなめられた





引揚げ後 荷物は1個も届かず 


その年の冬は 一張羅の夏服のままだった



 痩せて小さかった

食料難で 毎日雑炊 すいとん などを

盛り切り (おかわりはなし)

お餅はお正月だけのご馳走だった

大豆の炒った非常食 お腹が空いて食べると下痢をした



引揚げ後は もっと食べるものがなかった





お昼の食事は 美味しく全部いただいた

 白米のご飯 残すのは勿体ない






毎年 何度も同じようなことを投稿しているが


戦争は今も続いている 私の戦後も続いている

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敗戦記念日

2024年08月15日 | 戦争
79回目の敗戦記念日で お盆の中日


12歳の時 戦争に負けた


特攻隊で戦死した 従兄や 義兄を偲ぶ祈りを捧げる



何もかも失ったが 空腹が一番つらかった

戦争中も 敗戦後も いつもお腹を空かしていた





今は飽食の時代


今日の朝食は 

ご飯が山盛りで多かったが 勿体ないので全部食べた

お昼の冷やしラーメンも美味しくいただいた






今なお食べるものがなく 飢餓に苦しんでいる人たちが多い


二度としてはいけない戦争





姪夫婦が面会に来てくれた

一昨日 旭岳登山をしたそうである

Dir drop で写真を貰う



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソビエトの参戦

2024年08月10日 | 戦争
79年前の8月9日は



樺太庁豊原高等女学校一年生(12歳)


樺太 豊原市に住んでいたが 


不安と緊張と恐ろしさでいっぱいだった



ソ連軍の侵攻がはじまり

13日から婦女子の本土への疎開 引揚げがはじまった

我家は18日に立つ予定になり

学校へ在学証明書を貰いに行った


静まり返った校舎 担任のH先生が下さったが


 引揚げ船で 犠牲になられたそうである



14歳以上の男性は残ることに命令された



8月15日の 敗戦後も空襲や


 攻撃 戦闘が9月半ばまで続き


沢山の犠牲者や被害がでたことを忘れてはいけない


旧拓殖銀行本店 美術館になっていた (2012年撮影)


レーニン広場から 向こうの建物は駅



レーニン広場のバラ 夫のアルバムから



豊原大空襲で駅前は焼け野原になったが

レーニン広場になった

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎原爆の日 & 住み心地

2024年08月09日 | 戦争
長崎原爆の日

祈りを捧げます

核兵器のない世界を 平和を願っている


当時10歳だった被爆者代表の言葉が胸を打つ







よく眠り 昨日より体調が良い


気持ち悪さがすこしなくなり 朝ご飯を完食した



 1割に変更になった 高齢者医療保険証が届いた

詳しいいきさつは分からないが 良かった

事務室に持って行く途中 エレベーターで

見学者らしい 二人のご婦人と一緒になる

「いかがですか」と聞かれ 体調かと勘違いしたが

「施設の生活はいかがですか」だったので

「とてもよいですよ」と答えておいた


ハード面はとても恵まれているので 


住み心地は 本人の気持ち次第だと思っている




 二度咲きのバラが綺麗 外に行く元気はないので

中から眺める



道路の向こうは文化会館

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈りの日

2024年08月06日 | 戦争
広島原爆の日


8時15分 テレビに向かって黙とうし 

慰霊と平和を祈り 核兵器の廃絶を願う



  朝食の時お向かいの席になった Iさん


女学校四年生だったそう(私は一年生)


 毎日勤労動員で 勉強なんて出来ませんでした


あの時代の話しになる


具合が良く朝食を完食したら 動悸がひどくなり

ひとりで戻るのが不安になる

しばらく休んでから 見守ってもらい部屋に戻る

横になって休むと楽になった



ロビーで咲いていた


10時半に 一階まで降りて ヘアーカットしてもらう


動悸 立ち眩み 血圧の低下もあるが


休むと落ち着くので だましだまし 無理しないように


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄慰霊の日

2024年06月23日 | 戦争
昭和20年沖縄で20万人もの人たちが犠牲になった

79年目の慰霊の日

心から祈りを捧げます


AIに 描いてもらった絵に平和の文字を挿入







鼻水は治まったが 体調はイマイチ


平和通り白いテントの催しも 吹奏楽を聴くのもやめて


部屋でゴソゴソ


昨夜は 夫作成の スイス旅行のDVDや

YouTubeは アンドレ・リュウ

コンサートを観たり

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦災孤児 ガザ地区では餓死する子供

2024年06月20日 | 戦争
朝ドラで 戦災孤児の道男や大勢の孤児が描かれているが


実際はもっともっと悲惨だった



ガザ地区では今も多くの子供たちが親を失ったり


餓死する子供も多い


戦争はダメ 平和を願い祈っているが 人間は愚かである




敗戦時 12歳だった 樺太からの引揚げ後


母や姉たちの庇護があったから生きてこられた


母や姉たちがいなかったら 


路頭に迷っていたかもしれない



人ごととは思えないでいる



昨日もヤマボウシに元気をもらってきた







雨が降りそうなので 今日は散歩は休み


市民税課から 寡婦控除申請用紙が届いたので


記入して郵送をお願いしてきた

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花岡の餓死(敗戦後の食糧難)

2024年06月07日 | 戦争
朝ドラの中で 判事の花岡が餓死


実際にあったことではっきり覚えている


敗戦から2年経った昭和27年(1947年)は


まだ食糧難が続いており 我家ではジャガイモの塩ゆで


いも団子 カボチャ団子 が多く


母が農家からから買ってくる闇米のご飯は 特別な時だった


それでもお米が取れる田舎だったので


都会の人よりは恵まれていたと思う


栄養失調で亡くなる人が多く 引揚げ寮でも小さな子が亡くなった


都会からは 毎日多くの人が買い出しに来ていたが


やっと買ったお米を警察に没収されることが多かった




父はまだ樺太に抑留されており


母は買い出し 姉二人は稼ぎ


我が家族は生き延びられた






世界には飢えている人が多くいる




食欲がなく 勿体ないと思いながら 食べ残すことに


罪悪感を感じている









気温が上がり 初夏らしい陽気になったが

やせっぽちの寒がりは まだ長袖の下着を着ています

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れられない日

2024年05月18日 | 戦争




今年も祈りを捧げ 偲ぶ


従兄は22歳の青年のまま 私の心の中に生きている


戦争はしてはいけない



 勿忘草   エゾムラサキ?











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする