酉年も今日で終わり 明日からは戌年になる
戌笑うと言われるように 希望のある良い年になることを願う
昭和20年(1945年)も酉年だった
樺太(サハリン)豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいた
お正月にお雑煮をいただきながら父が
「来年のお正月は皆でお雑煮を食べられないかもしれないよ」と言った
母や私たちは
「そんなはずがない 神風が吹いて日本は絶対勝つんだ」
父の言葉に猛反対した
反対するだけでない 父はスパイに思われるのではないかと不安に思った
父の予言通り
8月に敗戦 父を残して母子7人北海道へ引揚げ
道北の小さな町の引揚げ寮に身を寄せたのは10月20日過ぎ
住まいだけは与えられたが難民と同じだった
母は毎日食料を求めて近郊の農家へ買い出しに行く
雨の日も吹雪の日も数キロも歩く
お金があっても売ってもらえない時代である
支給された軍隊毛布や着物との物々交換だった
農村とはいえお米などなく 分けてくれてもジャガイモかカボチャ
年末になっても餅つきもなし 年越しそばもなにもない
寂しい暗い大晦日だった
戦争に負けたら 国も自治体も誰も面倒なんて見てくれなない
生きるために
自分で自分を守らなければならないそんな時代だった