ハートのフレーム作り
昨日聞かれたが忘れていた
北星パソコンで教わった
フォント Webdings シフトを押しながらYを挿入すると ♥ができる
「末摘む花」さんを参考にフレームを作って遊んでみる
今日の天気は下り坂
11時の気温が22.6℃
涼しい
ハートのフレーム作り
昨日聞かれたが忘れていた
北星パソコンで教わった
フォント Webdings シフトを押しながらYを挿入すると ♥ができる
「末摘む花」さんを参考にフレームを作って遊んでみる
今日の天気は下り坂
11時の気温が22.6℃
涼しい
今年春 終活し
サ高住へ入った87歳の姉を子供たちと訪れた
大雪の山々が見える明るい5階
居間と寝室の2部屋で トイレお風呂もゆったりしている
隣は経営者で主治医の医院
母の時からのおつきあいで信頼関係も深い
週2回デイケアに通い
2回は元の家の近くで妹や姪たちと麻雀
ボケる暇はないようである
今の生活に満足し 安心して暮らしていた
「月日の経つのは早いのに
買い物 料理などしなくなったら
何もない日は時間の経つのが遅くて・・・」
この言葉と痩せていたのが
ちょっと気がかりだった
来年2月米寿を迎える
子供はいなくても
姪甥たちがお祝いを計画している
恵まれた老後だと思う
8月18日は 引揚げ記念日
1945年(昭和20年)8月18日
(旧樺太 豊原市) サハリン ユジノサハリンクスを発ち
父を除く 一家7人が 引揚船で (大泊)コルサコフから小樽港へ向った
三隻の船が 国籍不明の潜水艦に沈められ
1700人以上が亡くなられたが
私達は難を逃れ生きて引揚げることができた
73年経っても忘れることができない 引揚記念日である
ユジノサハリンスクの博物館
旧樺太時代も博物館だった
2012年7月訪れたときの
コルサコフの港(旧大泊港)
昔の面影はなかった
今日は孫30歳の誕生日でもある
小さい頃
引揚げ時のことを話すと
「おばあちゃんが船で沈んでいたら
僕は生まれていなかったんだね」
と 言ったことがある
孫たちが戦争に行くことがないように
そのような国にならないことを
願っている
パソコンクラブの勉強は
オートシェーブで葡萄を描く 楽しいが
先生は大変である office2007 2010 2013と2016
3種類のテキスト 3つの方法を教える
お隣は2013 私は2016 同じ方法で描くが
お手本どうりというのは描きずらい
どうにか時間内に1個完成する
帰宅後
アレンジして額に入れてみる
最高気温が17℃に届かなく寒い
お隣さんは毛糸のベストを着てくる
パソコンの熱気で
教室は暑くなったが 外は10月並み
毎日が休日の生活になって久しい
お盆も同じである
昨日は北見の姪たちが来たが
年を重ね何でも億劫になり
ご馳走は何も作らなかった
向かいのスーパーで買ったオードブル お寿司をを並べる
いただいた夕張メロン 作り置きしたサラダもどきを 追加しただけ
今日は詩吟
稽古は休みだが 大会向けての準備手伝い
いつもと変わらないお盆である
新聞に 「忘れめや」 の記事
釧路市の書道家
石原行雄(清雅)さん(97歳)
平和への思いの書を
「ピースアート展」に寄せた
特攻隊員だった石原さん
不戦への思いを 書で訴え続けている
特攻隊で20年5月に戦死した従兄
輸送船で海に消えた夫の長兄を偲び
平和の尊さをあらためて思う
73年たっても戦争の恐ろしさは忘れない
無断で載せたことは違反だが
あえて伝えたい
子供のころ
母は躾が厳しかった
父が日中戦争に出征中は 特に厳しかった
朝 起きて顔を洗うと 手をついて おはようございますと挨拶する
ご飯前に子供たちが家の掃除をする
姉たちは 家中はたきをかけ箒で掃いて板の間は雑巾がけ
私は玄関掃除が当番だった
神棚と仏壇のは水やご飯をあげる
父の無事をお祈りしてから朝ごはん
ちゃぶ台に家族全員が座り 手を合わせて祈り
一斉にいただきますと唱えて食事が始まる
そのころは
子供4人だったが 家の中はいつも綺麗だった
私たちが学校に出かけた後は 和裁の内職で家計の補い
客様がいらしたときの挨拶など特に厳しかった
言葉遣いもよく注意された
汚い言葉 乱暴な言葉は使わないように
母に睨まれるだけでおとなしくなった
父の無事を願い 4人を育てるのに
張りつめた毎日
精一杯努力したのだろう
まだ20代の母
昭和20年8月15日に敗戦
父を残しての引揚げ
引揚げ寮での
生きるためのどん底生活だった
母は毎日食料を求めて買い出し
しつけはがらりと変わった
何も言わなくなった
言葉遣いが悪くても行儀が悪くても
生きるために必死の生活は
躾を失った
躾を忘れたまま 大人になった私
今では遅い
お盆の13日
今日はお坊さんがお経をあげにいらした
それ以外の行事はない
歴史の浅い 北海道 樺太に住み
出身の宮城県の習慣も消えていき
昭和20年(1945年)の敗戦を境に
我が家のしきたりはゼロに近くなった
先祖をまつる気持ちには変わりはないが
仏様にお参りしお線香をあげるだけである
お墓は仙台なので 分骨した夫の両親のお参りに 納骨堂へ行く
娘たちも 仏壇に手を合わせ 納骨堂にお参りに行くだけである
実家も姉は施設に入り 両親の永代供養をしたので行くこともなく
心の中で祈るだけ
いつもと変わりない生活
夫は病院へ出かけた
仏壇のある部屋で
お経ではなく リチャードクレーダーマンを聴きながら
パソコンに向かている
昨日の山の日
sakurasouさんのブログで
スイスアルプスの山々を眺めることができ懐かしかった
私も同じころ4年続けて旅した
初めて手にしたコンデジ300万画素の写真
イタリアンアルプス ドロミテの山々
スイスアルプスとは違った美しさ