約2年ぶり、ブログからのコメントとはなるが、卒業して行ったシオリの声が、久しぶりに聞こえた。
一緒に稽古をしてきた仲間達の成長を喜んでくれていると同時に、自身が試合に勝つことなく、茶帯のまま、そのキャリアを終えたことを、少し悔やんでもいた。
私がシオリを指導した期間は約半年となったが、基本的な空手道としての動きは美しく、もう少し経験を重ねられたなら、また違った展開も生まれたのだろうと思えるので、その部分は私としても、少し残念に思う。
しかし、2010年12月28日に更新した教室ブログにも書いたように、シオリはその枠の中で精一杯、最後まで頑張ってきたはずであり、その頑張りは仲間達にも良い影響を与え、確実に彼らのチカラにもなっているのだ。
たとえ結果は出なかったとしても、高い意識で取り組み、やり切ったコトに、無駄なことなどあろうはずはない。
たとえば、そこに痛みという経験を誰より多くしたとするのなら、いつか痛みを抱えた人達を理解し、良き方向へ導いてあげることだって出来るかも知れない。
もちろん空手道だから、勝敗という線引きの中、目標を持って取り組むことは、その始まりとして‥成長の段階的なものとしては、それも大切なことなのだろう。
でも、人は生活においても、空手道や他のスポーツを続けて行くことにおいても、その繰り返しの中で、いったい何を見つめて行くのだろう?
何を取り組んで行くにしても、それら、すべてのことがらは、ある意味、人生の縮図ともなっていて、世の中の仕組みや自然界の流れ、その中心にある大切なものに気付いて行くための、そのキッカケの『場』となっている。
だから、空手道の型や礼儀作法の中にも意味合いがあるように、まずは基本的なル―ルを守り、それらを積み重ねながら考えを広げて行くことが、先人達が数百年の経験の中から見出してきた、その答に近付くということなのだろう。
そしてソコには、たくさんの人々への想いと優しさが溢れていることを、我々は忘れてはいけないのだ。
だとするなら、ひとつ一つの物事に取り組んで行く中で、けっきょく人は、『生き方の探求』をしているということなのだろう。
真理や本質的なものが一つであるように、生き方としての自然な姿に気付いたのなら、人はどのような仕事をし、それぞれの立場にあるとしても、生き方としての方向性は同じものとなって行く‥
生きるとは何か?本当の倖せとは何か?
その先に、まだまだ追求し、段階的に気付いて行くことはあるのだろうけれど、まずはシオリが‥
『あの時、理解できなかった言葉も、今は噛み締めるように実感しています‥』
と言っていたように、様々な経験の中、本来、自然と人が辿り着かねばならない場所へと、少しずつ歩いて行ってもらいたいと思う。
成功があり、たとえ挫折があったとしても、いつか、『だからこそ!』と言える、そんな『時』に繋がって行くだろう‥。
あの日、あの場所で、仲間達との触れ合いの中から養われたであろうチカラの数々。
あの日、あの時、その一瞬一瞬にシオリがいて、それぞれの心の中に、養われたチカラの中に、今でもシオリが生きている。
生き方の探求‥そのような意味では、シオリの武道精神は死なないし、シオリの空手道も、まだ終わらない。
マイナスだと思うことを一点で捉えるのではなく、すべては繋がりの中にあることを、忘れないでいてほしい。
人生を『道』でたとえたとしても、前向きに考えること‥前を向いて歩くということは、ごく自然なことだから。
(^-^)
【あの日の一枚】
★写真は‥シオリ&サワ。