トガニを観ました。
以前、韓国のろう学校で実際起きた性的虐待事件を元にした韓国映画です。
事件は2005年に明るみに出たそうです。
事件に興味を持った作家のコン・ジヨンさんが取材し小説にし、小説を読んだ主演男優のコン・ユが映画化したいと切望したそうです。
コン・ジヨンさんによると実際の事件は原作よりももっとひどかったようです。
詳しくはわかりませんが日本でも同様の事件が過去あったようですし、世界の各地でも、過去には似たような事件があったのではないかと思われます。
聴覚障害のみならず他の障害まで範囲を広げれば、世界各地で相当な数の痛ましい事件が起きたのではないでしょうか。
小説、映画の中では被害者の一人は、聴覚障害・知的障害を併せ持つ重複障害児でもあります。
小説化、映画化されたことで関連する法律が改正されるまでに至ったそうで、重いテーマながら、映画はかなり見やすい作りになっています。
劇的な構成というか感情移入しやすい作りというか。
お金を払って充分見る価値のある映画に仕上がっていますが、一方かなりの単純化も図られています。
悪人は悪人らしく描かれていて、一歩間違うと自らもそうなってしまうこともあるかもしれないといった心理的な恐怖としてはあまり描かれていません。
むしろそうなることは避けた方が良いと判断したことで、見やすい映画になっています。
描写は内面よりも社会の矛盾を描き出します。ですからある意味社会派エンターテインメント映画にもなっていますし、そこがヒットした理由でもあるのでしょう(主演俳優とともに)。
とてもいいシーンもありました。
法廷で被害者の子供の“聞こえ”のテストをやる場面。
聴覚障害者もいろいろであることを雄弁に語ったシーンです。
そして被告人をとある理由で指差す場面です。
また手話の撮り方もなかなかうまくやっている印象でした。
例えば顔も手も入るサイズではなくフレームの中に手が入ってくる、それでも意味はわかるように時には手にパンダウン(カメラを振り下ろすこと)したりするなど工夫していました。
子供達の手話は、手話を完璧にマスターして切り取るという方式ではなく、
必要な時のみ手話単語を出すというか、写っているところだけやらせている感じもありました。
ある意味、うまく撮っているということですね。
最初の方では無感動無表情という演出で、わざと表情をなくした手話として描いていたようです。
おそらく何も考えないで手だけで手話をやってくれというふうな演出だったのだと思います。聴者の子供がショッキングなことを体験すると無表情なしゃべり方になりますが、その応用でしょう。
実際のろう者の子供がこういった局面でどういう手話になるのかはわかりませんが。
ネイティブサイナーであれば、文法的な要素としての顔の動きはあるのではないかと思われますが??
後半では、ほぼ表情だけを見せるといった場面もありました。
手話表現の顔の部分だけを覚えさせて演出したのではないかと思われます。そのシーンは手は適当に動かしていればいいという演出だったのでしょう。
ところで韓国手話は、日本の手話との共通の手話単語がかなりありました。
ですから字幕を読まなくてもかなりわかる箇所もありました。
しかし何故、主人公は手話が出来るのでしょう?
理由は想像するに、手話ができる設定の方が撮るのも楽だし、主演俳優も格好良く見えるからでしょう。
手話学習者でもある私としてはとても気になる点でもありました。
その他にも映画を観て疑問点もあったので、原作を買って読んでみました。
何が疑問かいくつか列挙すると、
A どこまで事実なのか?
この点は脚色だろうという点が多々あった
B ろう学校の描写があまりにも単純化されている。
生徒一人一人の聴覚障害の側面がよくわからないし、他の教師もあまり描かれていない。
C 主演女優の設定
あまりにも単純化した設定なのでおそらく、映画化するにあたっての改変?
D 主人公の設定
小説で創作された人物を、映画化するにあたってさらに改変?
小説からの改変は、乱暴に言えば、説明がむずかしいものは極力単純化するかカット、主役が格好悪くみえる点はカットされている印象でした。
一つずつ見ていくと、
A 詳しくは書きませんが、映画を観た印象のままでした。
B 小説には、ろう者の教師も出てきて、解雇され抗議するという描写もあります。
おそらく実際にも、ろう者の教師が何名かいたのだと思います。
牧師としての校長など、キリスト教的な側面もかなり映画化されるにあたり簡略化されていました。
また、生徒達の一人は中途失聴者でした。なるほど。
C 小説では、主人公の大学の先輩で運動(スポーツじゃありません)をやっていた女性でした。
その後、結婚離婚し、子供を育てつつ人権活動をやっているといった設定です。
D 映画と違い妻は健在。映画より、かなり負の側面を持った人物として描かれています。
大学卒業後、高校の臨時教師を1年だけ経験。その後卒業した教え子と性的関係を持ち、
彼女はその後自殺。
彼はその後、他の仕事につくも失業し、妻の知人の斡旋で聾学校へくる。
C・Dは、労働運動をやっていたという作家コン・ジヨンさんの側面が、かなり反映している部分なのだと思われます。
そういった意味では、大幅に簡略化して映画としては正解だったのでしょう。
原作では手話が出来ない設定になっていました。
ですから当然、手話通訳者も登場します。
何も知らずに来た通釈者が、驚愕の事実に読み取り通訳不能になる場面などもあります。
しかし彼は、その後、能動的にその事件に関わっていく事になります。
確かに手話通訳を排除した方が映画としては楽ですが…。
「それでええんかい?」
なんだか、だらだらと書き連ねてしまいました。
こういった実際に起きた事件を元にした映画の場合、事件と映画がごちゃ混ぜに語られることが多いですが、(もちろんそれはそれでいいんですが)、切り離して語ることも必要かと思います。
また映画の感想をいつくか読んだのですが、こういった題材の映画が撮れる韓国の映画人に比べ日本の映画人は情けないといったような感想も複数見受けられました。
おそらく日本の映画人のなかでもやりたい人は多くいると思います。しかし資金がない、資金を出す人がいないという現状はあります。
要するに「暗い映画に客は入らない」という理屈ですね。
観る側の方も“感動”だけを追い求め過ぎなのではないかと思うこともあります。
ただ、そういった中でも知恵を絞って撮っている人たちもいるでしょう。
私も見習わなければなりません。
ちなみに「トガニ」は、主演俳優のコン・ユがやりたいということで成立した企画なのだと思います。
映画を観に行ったのは平日の昼間ですが、「立ち見です」と言われて驚きました。
さすがに立ち見はいやだったので、次の回にしましたが。
時間には余裕を持って映画館に行きましょう。