日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

興福寺五重塔

2010年05月09日 | Weblog
興福寺五重塔

近鉄電車は、奈良市内に入ると、地下に潜って、中心部に乗り入れる。駅を降りて
階段を上り、地上に出て、すぐ目に付くのは、噴水の真ん中に立つ行基菩薩の立像である。
行基さんの前を通りすぎ、すぐ右折するとにぎやかな商店街になる。
そこをとおりぬけると道は、3条通りと、T字型に交わる。それを左折して3条通りを100メーターも歩けば、右手に、猿沢の池が見える。それを無視して、もと来た道を行くと、なだらかな上りの坂道が続く。阪を上り詰めると、その道の左手に興福寺の五重塔が、そびえている。
塔はかなり高い。そして古めかしい、古色蒼然、としているが、荘重で美しい。やはりこれは国宝だった。
均整のとれた建築美が読み取れる。奈良市を紹介するパンフレットや冊子の写真は、たいていこの五重塔だ。日本人なら、誰が見ても、壮麗美だと思うだろう。ほれ込む人は、建築美の極致だというかもしれない。近づいて、カメラを覗くと、塔の下から、上までの全景は、収まらない。そこで、南円堂にぐっと近づいて、つまり塔からずっと離れて、1枚とった。

五重塔の原型は、スツーパである。お釈迦様が入滅されたとき、その遺骨は、八つに分けられて、インド各地に分散されてその上にスツーパがたった。その一つが、インドのパートナーの近くにある、最近の発掘調査でバイシャリー遺跡の、ここに収められていたことが分かったらしい。
舎利すなわちお釈迦様の遺骨を収めたのが、スツーパで、それが時代を経て塔になり、今僕の目の前にある。興福寺の五重塔がそうである。こんなことも、インドに行ってこないと気がつかなかっただろうし、わからないことだったのだ、というコトが頭をよぎった。

インドの旅はきつかった。自然条件の違いもさることながら、僕と接触するインドの人々(インド人がどうかわからない)とは、心情的に違うものを感じて、最後まで、気が許せなかったから、溶け合うことは無かった。日本では、釈迦は尊敬され、合掌して拝み、その教えを日常生活の隅々にまで、染み込ませてきたはずの日本人のぼくの心情とは、全然異質なものがあると思った。これは一体なぜだろう。日本には現れないで、聖なる大地マハーバーラタ・インド、ここ地元に、大聖人が現れたというのに。釈迦の教えもその影響も、果ては匂いさえも、完全に消されてしまったのだろうか。仏教に壊滅的打撃を与えたイスラム教のために仏教的なものは全てかき消されてしまったというのだろうか。

釈迦はインドに生まれた。正確には、現在のパール領のルンビニに生まれた。インド人も日本人も、その人に帰依してその教えを精神生活の支柱ともしていたというのに。
そこで僕は考えた。その他大勢の雑魚は、インド人でも、日本人の僕でも、普遍的なことを考える前に、己の立場を最重要視するために、言い換えるならば、己の損得に、こだわるために、溶け合わない部分が目立つのではないか。
そういう理屈をつけても、じゃ握手と言うわけにはいかない。まだ心に引っかかるものがある。いったい何なのだろう
ぼくの気質によるものか、相容れない価値観を持っているからだろうか、自然環境によって形成されたものの考え方の違いによるものか。理由が何であるにせよ、うちとけられない。インド人と見ると身構えてしまう。


目の前の国宝のこの五重塔を見ていると、やはり日本を見てしまう。木造の塔ならネパールで、よく見かけた。特に、カトマンズ郊外のバクタプルで見かけたあの木造建築の塔と日本のものはどこか違う。
しかし、基本である尊いもの(舎利)をまつるというスツーパの原理は、石造か木造か、スケールが大きいが、小さいか。そんなことには関係なく、仏教では、重要な建造物である。

せっかくインドの仏蹟めぐりの旅に出て、サルナートまで、いきながらサルナートにある有名なスツーパを見逃したのは、何とも残念で悔しい。バラナシには、幾日も滞在したのに、サルナートの見学は、1日で済ませた。なぜだろう。多分相当疲れていたんだろう。
ここにあるムルガンダ・クテイ寺院では、日本語を話せるインドの若い修行僧がいたし、ぼくが生まれる1年前に、既になくなっている日本人画家・野生司香雪が、この寺の壁に、釈迦の一代記を壁画で残している。
画伯のことは何も知らないが、懐かしい想いと同時に誇らしい気分になった。日本に生まれてよかった。先人にはこんな誇らしい人もいたんだ。学校では美術史でも歴史でも習わなかったが、釈迦に熱い思いを寄せて
ここまできてこんなすばらしい一代記を残したのは、彼のみならず日本人の誇りだと思った。
ぼくは彼がまるで自分の先祖か何かのように嬉しくなった。
ついでに書くと、画伯の名前・野生司香雪はアジャンタの石窟寺院の案内書でも見た。
サルナートは、バラナシの北約15キロのところにある。境内は、芝生の緑が眩しい。そして、なによりも、静かである。小さな動物園があり、池にかかった橋を渡るとき、水面を見ると、小魚がたくさん泳いでいる。ポケットから、パンを取り出して、水面に放り込むと、小魚がぱっと押しよせて銀鱗が踊る。心がなごむ一瞬だ。そして、境内には、釈迦が初めて説法をしたときの様子が、像で表されている
一番初めに。釈迦の弟子になった5人の弟子たちの像が等身大で設置されている。
ところが像は、日本人の僕から見ると、ちゃちである。日本では、釈迦であろうと、その高弟であろうと、荘厳であり威厳があるのを見慣れているので、物足りないものを感じた。どうしてあの大聖人も、こんな軽いタッチの像に仕上げられているのだろうか。人種によって美的や宗教的感覚も、違うのだろうか。

まず最初ブッタガヤのマハーボーテイ寺院にある釈迦像を見たときの第一印象は、日本のそれと比べて、なんと軽いタッチの像だろう。まるでおっちょこちょいに仕上がっていると不思議に思った。荘厳で厳粛で威厳があるとありがたさが湧いてきて拝む気にもなれるが、威厳もなく荘厳さにかけると、拝むありがたさも半減する。日本の仏像・とりわけ釈迦像が頭にこびりついて、それとこれを比較するからちゃちに見えるのだろうか。ぼくは今も日本を引きずっているのだろうか、とも思ったが、それは違う、作りそのものが荘厳なものではなく、僕の眼から見ると、軽いタッチで作るのが、インドの国民性なのかもしれないと思い直した。

どうしたわけか。興福寺の五重塔を目の前にして、次々と、頭をかけめぐるのは、インドの仏蹟のことだった。
釈迦が難行苦行から自らを解放してスジャータの差し出した乳粥で元気を取り戻し悟りを開いたというブッタガヤ。当時世界最大の仏教学問所・大学があったナーランダ。ブッタが晩年をすごしたマガタ王国のあった当時の都・ラージギル。ヒンズー教3000年の歴史を持つ聖地バラナシとガンジス川、 そこから10キロほど北へ行ったサルナート 、など訪れた仏教遺跡が次々と走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

やがて五重塔は西日を浴びて、明るく輝きだした。それを見てぼくの頭はインドから日本・奈良、興福寺前に切り替わった。