白毫寺
白毫寺は天智天皇の第七皇子である志貴皇子の山荘の跡に建てられたと伝えられているようであるが、異説もあるらしい。 異説は知らなかったので、白毫寺の詩を書いたときに、「その昔の志貴皇子の白毫寺 五色椿は今盛りなり」とかいてしまった。
平安遷都にともない寺も寂れたようであるが、鎌倉時代になり西大寺中興の祖である叡尊によって再興されたという。その後、叡尊の弟子であった道照が中国から持ち帰った「宋版一切経」を経蔵に収め、法要をあげて以来、この寺は「一切経寺」とも呼ばれるようになり、多くの人々から親しまれるようになったとされているそうな。
叡尊上人と言えば興正菩薩。確か700年の大遠忌の時だったと思うが、 興正菩薩讃歌を書いて西大寺本堂で奉納演奏したことがある。彼は釈迦信仰を広めようと活躍すると同時に、北山八間戸を作り病人をすくい菩薩と称された人である。
室町時代には兵火により全山焼失したが、現存の仏像はその兵火から守られ焼失を免れたといわれている。後、寛永年間(1624~44年)に興福寺の空慶上人によって再興され現在に至っているという。
なお、寺名になっている「白毫」というのは仏の眉間にあって光明を発したとされる白い縦長の目のことを指すらしい。
当寺の花:
1.主たる花
椿
見頃は4月上~中旬
萩
見頃は9月中旬~10月上旬
奈良市街を見下ろす高円山の中腹に建つ白毫寺は、閻魔大王を祭る珍しい寺。この閻魔像は運慶の孫の康円の作とされ、1月16日と7月16日の縁日には「閻魔もうで」が行われる。これは参拝者の無病息災と長寿を願って行われるもので、当日参拝すると、住職手書きの独特の味を出したうちわが配られる。
寺は「いわばしる~」の歌を詠んだ志貴皇子の山荘の跡だとか、空海の師が住んだ岩淵寺の一院などと伝わっているが、鎌倉時代になって西大寺の叡尊が、荒廃していた寺を再興した。収蔵庫に納められている興正菩薩坐像は、西大寺のものを模したといわれている。
また、春には奈良三名椿のひとつに数えられる「五色椿」が咲くことでも有名。
三名椿とは東大寺開山堂の「糊こぼし」と伝香寺の「散り椿」に白毫寺の五色椿を加えたもので、ひとつの樹から色とりどりの花が咲く珍しいものだ。ほかにも、寺へと続く長い石段が萩に覆われる秋の風情もすばらしく、境内にはこの萩を詠んだ万葉歌碑も建てられている。
白毫寺は天智天皇の第七皇子である志貴皇子の山荘の跡に建てられたと伝えられているようであるが、異説もあるらしい。 異説は知らなかったので、白毫寺の詩を書いたときに、「その昔の志貴皇子の白毫寺 五色椿は今盛りなり」とかいてしまった。
平安遷都にともない寺も寂れたようであるが、鎌倉時代になり西大寺中興の祖である叡尊によって再興されたという。その後、叡尊の弟子であった道照が中国から持ち帰った「宋版一切経」を経蔵に収め、法要をあげて以来、この寺は「一切経寺」とも呼ばれるようになり、多くの人々から親しまれるようになったとされているそうな。
叡尊上人と言えば興正菩薩。確か700年の大遠忌の時だったと思うが、 興正菩薩讃歌を書いて西大寺本堂で奉納演奏したことがある。彼は釈迦信仰を広めようと活躍すると同時に、北山八間戸を作り病人をすくい菩薩と称された人である。
室町時代には兵火により全山焼失したが、現存の仏像はその兵火から守られ焼失を免れたといわれている。後、寛永年間(1624~44年)に興福寺の空慶上人によって再興され現在に至っているという。
なお、寺名になっている「白毫」というのは仏の眉間にあって光明を発したとされる白い縦長の目のことを指すらしい。
当寺の花:
1.主たる花
椿
見頃は4月上~中旬
萩
見頃は9月中旬~10月上旬
奈良市街を見下ろす高円山の中腹に建つ白毫寺は、閻魔大王を祭る珍しい寺。この閻魔像は運慶の孫の康円の作とされ、1月16日と7月16日の縁日には「閻魔もうで」が行われる。これは参拝者の無病息災と長寿を願って行われるもので、当日参拝すると、住職手書きの独特の味を出したうちわが配られる。
寺は「いわばしる~」の歌を詠んだ志貴皇子の山荘の跡だとか、空海の師が住んだ岩淵寺の一院などと伝わっているが、鎌倉時代になって西大寺の叡尊が、荒廃していた寺を再興した。収蔵庫に納められている興正菩薩坐像は、西大寺のものを模したといわれている。
また、春には奈良三名椿のひとつに数えられる「五色椿」が咲くことでも有名。
三名椿とは東大寺開山堂の「糊こぼし」と伝香寺の「散り椿」に白毫寺の五色椿を加えたもので、ひとつの樹から色とりどりの花が咲く珍しいものだ。ほかにも、寺へと続く長い石段が萩に覆われる秋の風情もすばらしく、境内にはこの萩を詠んだ万葉歌碑も建てられている。