日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

昭和1桁悲哀節

2010年05月16日 | Weblog
           昭和1桁悲哀節


1,花も実もある青春を  軍隊にとられ殺し合い。

 殺し殺されるのもイヤだけど、お国のためと強いられて、

運良く、助かって帰国したら、家も肉親も焼きはらわれて、瓦礫の山に呆然と立ち尽くす。

2,食うや食わずの日を過ごし、闇市で、カストリ飲んで、我が身を慰めれば、朝鮮動乱特需景気で、祖国復興は軌道に乗り、 続く高度経済成長では、産業戦士とおだてられ、馬車馬のごとく働きバチ。

オイルショックの低成長では、情け容赦なく、窓際族 。家では住宅ローンの重圧に加えて、核家族。

子供は親の老後の世話をしないという。

3,男女同権 民主主義 自由平等の名の下に、女房からは粗大ごみ扱いをされる。

 広い天下に、わずか5尺の身の置き所なし。

迫り来る人生の夕暮れ 我が過しかたをながむれば、怒りのみぞこみ上げて、悲哀の嘆き声もなし。

4,鳥なら、とんで逃げる手段あるが、鳥ならぬ身飛ぶすべもなし 。たとえ飛べども行くところなし。

これは、我ら世代の宿命か。、 人の一生とは、こんなものか。

空に居ます神や仏や先祖たち、 我らの嘆きを聞きたまえ。物言いはぬ我らが心情察しあれ。

人間不信になるのも、神仏に、手を合わせないのも、すべて失われた青春の後遺症。



白毫寺

2010年05月15日 | Weblog
白毫寺
 

白毫寺は天智天皇の第七皇子である志貴皇子の山荘の跡に建てられたと伝えられているようであるが、異説もあるらしい。 異説は知らなかったので、白毫寺の詩を書いたときに、「その昔の志貴皇子の白毫寺 五色椿は今盛りなり」とかいてしまった。

 平安遷都にともない寺も寂れたようであるが、鎌倉時代になり西大寺中興の祖である叡尊によって再興されたという。その後、叡尊の弟子であった道照が中国から持ち帰った「宋版一切経」を経蔵に収め、法要をあげて以来、この寺は「一切経寺」とも呼ばれるようになり、多くの人々から親しまれるようになったとされているそうな。

叡尊上人と言えば興正菩薩。確か700年の大遠忌の時だったと思うが、 興正菩薩讃歌を書いて西大寺本堂で奉納演奏したことがある。彼は釈迦信仰を広めようと活躍すると同時に、北山八間戸を作り病人をすくい菩薩と称された人である。


 室町時代には兵火により全山焼失したが、現存の仏像はその兵火から守られ焼失を免れたといわれている。後、寛永年間(1624~44年)に興福寺の空慶上人によって再興され現在に至っているという。

 なお、寺名になっている「白毫」というのは仏の眉間にあって光明を発したとされる白い縦長の目のことを指すらしい。

当寺の花:

 1.主たる花
  椿
   見頃は4月上~中旬
  萩
   見頃は9月中旬~10月上旬

奈良市街を見下ろす高円山の中腹に建つ白毫寺は、閻魔大王を祭る珍しい寺。この閻魔像は運慶の孫の康円の作とされ、1月16日と7月16日の縁日には「閻魔もうで」が行われる。これは参拝者の無病息災と長寿を願って行われるもので、当日参拝すると、住職手書きの独特の味を出したうちわが配られる。
寺は「いわばしる~」の歌を詠んだ志貴皇子の山荘の跡だとか、空海の師が住んだ岩淵寺の一院などと伝わっているが、鎌倉時代になって西大寺の叡尊が、荒廃していた寺を再興した。収蔵庫に納められている興正菩薩坐像は、西大寺のものを模したといわれている。
また、春には奈良三名椿のひとつに数えられる「五色椿」が咲くことでも有名。
三名椿とは東大寺開山堂の「糊こぼし」と伝香寺の「散り椿」に白毫寺の五色椿を加えたもので、ひとつの樹から色とりどりの花が咲く珍しいものだ。ほかにも、寺へと続く長い石段が萩に覆われる秋の風情もすばらしく、境内にはこの萩を詠んだ万葉歌碑も建てられている。

イチローは超人だ

2010年05月14日 | Weblog
イチローは超人だ

1,苦しみの次につらさがくる。その後で痛覚では感じない痛みがくる

2,余計なこと、視聴率などを気にしたら結果は良くないがそれも考えた。そして壁をのり越えた

4,心がおれた 心が折れ掛かった

5,神が降りてきた。絶体絶命のとき

WBCの対韓国戦でヒットを放ち 2アウトからの逆転で日本が世界一になったとき感想を聞かれた彼はこういった

車遍路

2010年05月13日 | Weblog
車遍路

近頃遍路人口が増えた。定年退職して家でぶらぶらしてても仕様が無いから遍路でもしようかと言うくらいの軽い意気持ちで、四国八十八箇所の寺を巡る、宗教的というよりは半ば観光的な要素を含んで車、観光バスの場合もあ り、マイカーの場合もある。
寺のほうもちゃっかりしたもので、駐車場を作り経営しているところもある。

納経の集印をしようと、寺務所にいったら、何で来たかと訪ねられた。当節車で巡り人以外には思いつかないので、車で来た旨をつたえたら、500円の駐車料金を支払わされた。
坊主の世界も、せこいなーと良い気持ちはしなかった。まあこちらも信仰心というよりは観光気分で来ているから、それも仕方がないとあきらめて支払った。

車では三回巡ったが、これという御利益は何もなかった。そこでせっかく廻るのだったらもっと実のある遍路をしようと思っていたところ、八十番札所で歩き遍路に出逢い、話す機会があった。彼が言うには、車で廻ると何も見えないから可哀相だと言う。表だって反論はしなかったが、僕の側から言うと1400kmを10kgほどの所帯道具を背中に背負い歩いて何の意味があるのだろう。と言うことだ。
彼は続けた
「これも不思議なことだが、私の場合3という数字に関係がある。歩き始めて3日まではどうして、歩こうなんて考えたか、と言う不平が一杯であった。ところが三月経つと自然の姿が見え始めた。今まで全く気のつかなことが、気になりだして夢中で歩いた。3年が経つと自然が見えてきて、聞こえるようになった。いま二十八回目だけど三十回目がが楽しみだ。
あんたのように車で回っている人は運転に気をとられた何も見えないはず。同じ遍路しながら、可哀相になる」

僕は歩くほど遍路に執着も重きもおいてないから、表面上はご苦労さんと言ったが、それは口先だけだった。いつか発心して僕も歩き出すのかも知れないが、今はその考えはない。

名刺7-58

2010年05月12日 | Weblog
      名刺

 長年唯一の肩書として使ってきた名刺から日本作曲家協会会員の肩書を外した。今の音楽状況からするとこんな、作曲家協会の会員であることが恥ずかしいと思ったからだ。
今はやりの歌は僕の感覚からすると、とても歌という代物ではなく 、ラジオ体操をBGMとしか思えない。だから一切聞かないし、歌わない。また、歌いたい歌もない。こういう歌を求める、聴衆にも責任があるが、作曲家側にも、大いに責任があるし、だいたい、良いものを発掘し育成しようとしないマスコミにも責任がある。
皆金もうけに忙しく、歌の何たるや、文化の何たるや、を考える、余裕がないのだろう。
 昨日カンボジアの、首都プノンペンの唯一の目抜き通り。モニポン通りを歩いていたら 道端に大きな日傘をさし、机の上には、各種の名刺が取りそろえて印刷の値段が表示されていた。
最初は名刺を作ろうなどとは思ってもみなかった。ビデオカメラで撮っていた、たまたま、売り子の顔が映ってしまった。もの珍しそうにしていたので静止画をとって見せたが、きゃっきゃと大喜びした。それが縁で、名刺を作ることになった。
モデルになるものを1枚渡したが細かい文字がたくさんあるので、作詞作曲
と氏名 E-mailと電話番号を書いて渡した。
いつできあがるのかというと5時ごろに来てくれという。
5時にきたら原版はすり上がっていた。1字1字チェックしてこれでOKだと言ったら6時にはわたせるという。約束の6時に来ると、8時に来てほしいという。
これがくせものだった。僕はてっきり、その日のうちの8時つまり夜の8時だと思った。雨が降る中、傘もささずに露店へ行ったが、誰もいなかった。さてはだまされたか。もし、明日、彼女たちがここに来なかったら手付金の2ドルは持ち逃げされ事になる。確定した、わけではないのが、急に腹が立った。
翌朝9時過ぎに例の名刺印刷を依頼した店を訪ねるとまだ出来ていないと言う。僕はとうとう切れた。約束を何回破ったら気が済むのだ。僕は今日の飛行機でプノンペンを発ってバンコクに戻るのだ。こんな名刺くらい印刷するのに何日かかるのだ。
僕はいらだってそう怒った。と言ってもこのような小言をぶつぶつ言っただけでどこまで彼女に通じたか分からない。お互いに言葉は通じなかったから、僕は表情で不快感を表すしかしようがなかったのであるが。

実にわかりにくい

2010年05月11日 | Weblog
実にわかりにくい

魂  霊魂  霊 精神 心
どれ1つとして実態のつかめないものばかりである。それどころか、その存在だって人によって存在するという意見と、存在しないという意見とに別れていて、つかみ所がない。

霊感のある人によっては魂の存在を見つけるだけでなく、交流さえ出来る人がいると言うが、それは客観的に第三者によって証明されたり、追認されたりするわけでもないから、
詰まるところ、信じるか信じないかによって、魂霊魂等というものは存在したり、しなかったりで、これほど判りにくいものはない。
しかしながら、心とか精神というものは、日常生活上で頻繁に使うものであるから、出来れば中身を知りたいものである。脳科学者は医学面から、僧侶は宗教面から霊や精神について話をするが、僕にとってはどちらも要領を得ない。つまりストンと腹の底に届かないのである。

この問題はいずれにせよ将来解明され、証明される性質のものか、それとも未来永劫に証明されることなく、神の領域と言うところに棚上げされてしまうのだろうか。
判らないことである。

相変わらずだ

2010年05月10日 | Weblog
相変わらずだ

踏まれても、ついていきます、下駄の雪
社会党が連立政権を組んだときに、歌われた戯れ歌。

自民党とくんだ社会党は選挙民を裏切った。結局大臣病患者の集合体であると言われてもしかたがない。

結果を見ればわかるとおり、自滅した感じだ。話にもならん。国会議員なんてしょせんこの程度の人種だ。取るに足りない連中がおおい。00チルドレンなんて話にならない。こんな連中に国政を任せているから、国際的な地位が下がるのだ

興福寺五重塔

2010年05月09日 | Weblog
興福寺五重塔

近鉄電車は、奈良市内に入ると、地下に潜って、中心部に乗り入れる。駅を降りて
階段を上り、地上に出て、すぐ目に付くのは、噴水の真ん中に立つ行基菩薩の立像である。
行基さんの前を通りすぎ、すぐ右折するとにぎやかな商店街になる。
そこをとおりぬけると道は、3条通りと、T字型に交わる。それを左折して3条通りを100メーターも歩けば、右手に、猿沢の池が見える。それを無視して、もと来た道を行くと、なだらかな上りの坂道が続く。阪を上り詰めると、その道の左手に興福寺の五重塔が、そびえている。
塔はかなり高い。そして古めかしい、古色蒼然、としているが、荘重で美しい。やはりこれは国宝だった。
均整のとれた建築美が読み取れる。奈良市を紹介するパンフレットや冊子の写真は、たいていこの五重塔だ。日本人なら、誰が見ても、壮麗美だと思うだろう。ほれ込む人は、建築美の極致だというかもしれない。近づいて、カメラを覗くと、塔の下から、上までの全景は、収まらない。そこで、南円堂にぐっと近づいて、つまり塔からずっと離れて、1枚とった。

五重塔の原型は、スツーパである。お釈迦様が入滅されたとき、その遺骨は、八つに分けられて、インド各地に分散されてその上にスツーパがたった。その一つが、インドのパートナーの近くにある、最近の発掘調査でバイシャリー遺跡の、ここに収められていたことが分かったらしい。
舎利すなわちお釈迦様の遺骨を収めたのが、スツーパで、それが時代を経て塔になり、今僕の目の前にある。興福寺の五重塔がそうである。こんなことも、インドに行ってこないと気がつかなかっただろうし、わからないことだったのだ、というコトが頭をよぎった。

インドの旅はきつかった。自然条件の違いもさることながら、僕と接触するインドの人々(インド人がどうかわからない)とは、心情的に違うものを感じて、最後まで、気が許せなかったから、溶け合うことは無かった。日本では、釈迦は尊敬され、合掌して拝み、その教えを日常生活の隅々にまで、染み込ませてきたはずの日本人のぼくの心情とは、全然異質なものがあると思った。これは一体なぜだろう。日本には現れないで、聖なる大地マハーバーラタ・インド、ここ地元に、大聖人が現れたというのに。釈迦の教えもその影響も、果ては匂いさえも、完全に消されてしまったのだろうか。仏教に壊滅的打撃を与えたイスラム教のために仏教的なものは全てかき消されてしまったというのだろうか。

釈迦はインドに生まれた。正確には、現在のパール領のルンビニに生まれた。インド人も日本人も、その人に帰依してその教えを精神生活の支柱ともしていたというのに。
そこで僕は考えた。その他大勢の雑魚は、インド人でも、日本人の僕でも、普遍的なことを考える前に、己の立場を最重要視するために、言い換えるならば、己の損得に、こだわるために、溶け合わない部分が目立つのではないか。
そういう理屈をつけても、じゃ握手と言うわけにはいかない。まだ心に引っかかるものがある。いったい何なのだろう
ぼくの気質によるものか、相容れない価値観を持っているからだろうか、自然環境によって形成されたものの考え方の違いによるものか。理由が何であるにせよ、うちとけられない。インド人と見ると身構えてしまう。


目の前の国宝のこの五重塔を見ていると、やはり日本を見てしまう。木造の塔ならネパールで、よく見かけた。特に、カトマンズ郊外のバクタプルで見かけたあの木造建築の塔と日本のものはどこか違う。
しかし、基本である尊いもの(舎利)をまつるというスツーパの原理は、石造か木造か、スケールが大きいが、小さいか。そんなことには関係なく、仏教では、重要な建造物である。

せっかくインドの仏蹟めぐりの旅に出て、サルナートまで、いきながらサルナートにある有名なスツーパを見逃したのは、何とも残念で悔しい。バラナシには、幾日も滞在したのに、サルナートの見学は、1日で済ませた。なぜだろう。多分相当疲れていたんだろう。
ここにあるムルガンダ・クテイ寺院では、日本語を話せるインドの若い修行僧がいたし、ぼくが生まれる1年前に、既になくなっている日本人画家・野生司香雪が、この寺の壁に、釈迦の一代記を壁画で残している。
画伯のことは何も知らないが、懐かしい想いと同時に誇らしい気分になった。日本に生まれてよかった。先人にはこんな誇らしい人もいたんだ。学校では美術史でも歴史でも習わなかったが、釈迦に熱い思いを寄せて
ここまできてこんなすばらしい一代記を残したのは、彼のみならず日本人の誇りだと思った。
ぼくは彼がまるで自分の先祖か何かのように嬉しくなった。
ついでに書くと、画伯の名前・野生司香雪はアジャンタの石窟寺院の案内書でも見た。
サルナートは、バラナシの北約15キロのところにある。境内は、芝生の緑が眩しい。そして、なによりも、静かである。小さな動物園があり、池にかかった橋を渡るとき、水面を見ると、小魚がたくさん泳いでいる。ポケットから、パンを取り出して、水面に放り込むと、小魚がぱっと押しよせて銀鱗が踊る。心がなごむ一瞬だ。そして、境内には、釈迦が初めて説法をしたときの様子が、像で表されている
一番初めに。釈迦の弟子になった5人の弟子たちの像が等身大で設置されている。
ところが像は、日本人の僕から見ると、ちゃちである。日本では、釈迦であろうと、その高弟であろうと、荘厳であり威厳があるのを見慣れているので、物足りないものを感じた。どうしてあの大聖人も、こんな軽いタッチの像に仕上げられているのだろうか。人種によって美的や宗教的感覚も、違うのだろうか。

まず最初ブッタガヤのマハーボーテイ寺院にある釈迦像を見たときの第一印象は、日本のそれと比べて、なんと軽いタッチの像だろう。まるでおっちょこちょいに仕上がっていると不思議に思った。荘厳で厳粛で威厳があるとありがたさが湧いてきて拝む気にもなれるが、威厳もなく荘厳さにかけると、拝むありがたさも半減する。日本の仏像・とりわけ釈迦像が頭にこびりついて、それとこれを比較するからちゃちに見えるのだろうか。ぼくは今も日本を引きずっているのだろうか、とも思ったが、それは違う、作りそのものが荘厳なものではなく、僕の眼から見ると、軽いタッチで作るのが、インドの国民性なのかもしれないと思い直した。

どうしたわけか。興福寺の五重塔を目の前にして、次々と、頭をかけめぐるのは、インドの仏蹟のことだった。
釈迦が難行苦行から自らを解放してスジャータの差し出した乳粥で元気を取り戻し悟りを開いたというブッタガヤ。当時世界最大の仏教学問所・大学があったナーランダ。ブッタが晩年をすごしたマガタ王国のあった当時の都・ラージギル。ヒンズー教3000年の歴史を持つ聖地バラナシとガンジス川、 そこから10キロほど北へ行ったサルナート 、など訪れた仏教遺跡が次々と走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

やがて五重塔は西日を浴びて、明るく輝きだした。それを見てぼくの頭はインドから日本・奈良、興福寺前に切り替わった。


、孤独地獄万歳。

2010年05月08日 | Weblog
ひとりでいることが多くなった私はふと考えた。自分だけ一人で過ごす時間が、耐えられなくなってしまう。仲間外れはそういう時間を与えてくれる。神仏のプレゼントなのだ。仲間外れ万歳、孤独地獄万歳。

東南アジア中心に15億人に歌われている「北国の春」は遠藤実先生の傑作である。CDの売れた枚数は知らないが、15億人が慣れ親しむというこの数字はただものではない。そんな先生の書物を読んでいたら、上記の様な文章があった。

ああ、やっぱり先生も孤独だったのだと思うと、勇気が湧いてきた。
考えて見ると創作なんて話し合いで作れるものではないし、しょせん自分との戦いであるから、むしろ孤独でなくてはならないのだ。ようやく現在の自分に納得が出来る気分になった

私は今真剣に日本について考える。

2010年05月07日 | Weblog
私は今真剣に日本について考える。

1,1400兆円と言われる借金は今後どうなるのだろうか。
2,歳入より歳出が多くて、後は借金、国債でつじつま合わせをしている現状を他人はどう見ているのだろうか
3,国の借金なんか気にもかかった事が今まで無かったが、新聞を読んでいるとかなり深刻な気持ちになる。
4,何よりもこれで日本の国が持つのかなと心配が先立つ。

この苦境を脱する具体的な方法を教えてほしい物だ。

心の枠組みを変える

2010年05月06日 | Weblog
心の枠組みを変える

車を運転して走行中に、列車に乗って車窓を眺めている時に、本を読んでいるときに、アイデアやヒラメキはぼんぼん出てくる。外界と自分の神経が間断なく反応しあって生じる現象か。92.11.23

心は流れる
心は気分の流れによって揺れ動く。流れるといった方が適切かもしれない。人の心は常に流れていて片時も一カ所にとどまることを知らず、関知できる全てのものに系を結んでいる。
ところが心をどこか一カ所にとどめておくことは大切なことである。何が心をと、揺れ動くことなく肝心な事柄は一歩も離れない。つまり心の固定ということも大切だ。しからば何に固定するのか、宗教にがち理心を固定しておくのか、それとも人間関係にか。

生きがいのある人生を

2010年05月04日 | Weblog
生きがいのある人生を

生まれてきてよかった。生きてみてよかった。と心から思えるような生き方しなくちゃ。
命が体中から、ほとばしり出るような、毎日が楽しくて、しようがないような、そんな人生は人の心の中にある。自分の考えひとつで、あったり、なかったりする。生きがいのある人生を。
作曲家遠藤実さんの自叙伝を読んだ。神様は人間に命を与える。与えられた命は平等でどの紙も白紙である。そのキャンバスにどのような絵を描くのか、どんな色を塗るのかはその人が決める。

彼は貧乏育ちだった。神は貧乏という付箋をつけて彼をこの世に送り出した。しかし彼はその紙を自分色に染めた。その間の苦労を書いたのが、作品として残った。
その苦労の足跡こそ神が与えたチャンスを補足したものである。彼の歌が15億人に
よって愛される所以である。

涙を流さずして

2010年05月03日 | Weblog
涙を流さずして

他人の飯は食えない。他人の飯を食うて初めて我が家の居心地の良さがわかる。

かわいい子には旅をさせろとはよく言ったものだ。他人の飯を食うその中に一人で生きていく本当の人生があるのだ

艱難辛苦汝をたまにす。これは至言だ。

人生の味はそれだけわかる。だが、人生の味を知らなくてもよい連中にはこれは至言どころか愚の骨頂の見本みたいなものになろう。

もう50年も昔に山田耕筰先生に言われたことが今頃になって身にしみている。先生は同時にこの苦労が何よりの宝物になるだろうとも言われた。

長生き

2010年05月02日 | Weblog
長生き


約700年ほど昔に徒然草の著者 吉田兼好は40過ぎで死ぬのが上手な人生の生き方だと書いた。沈みかける夕陽のように余命が少ない身で子や孫のことを愛し、その行く末を案じるのはむさぼりの心ばかりが、つよくなって情趣を失うのが残念だと書いた。

南北朝時代と今では平均寿命が愛ほども違うから、自然体で高齢者が増えてくる。
問題は彼が指摘するような人生観、特に子や孫に対する思いは違ってきて当然だ。

親殺し、子殺しなどということが、毎日のようにあるが、それでもなお、親が子を孫を思うのは人生の理にかなっており、老人が一日も長く子孫の行方を見届けるために長生きしたいというのは、人情の自然である。

彼の言うようにあまり老人くさくならないうちに、この世を去りたいと思う人が、多数を占めるとは考えられない。要するに寿命というものがある限り、それまでは生きなくてはならないが、それが恥を多くかく年代と断じ切れない。

まあ子や孫の行く末を見守りたいと思って生きているということもさることながら、生きている限り、子や孫のことが気になるというのが人情の自然ではないだろうか。

だからそれを求めてなぜ悪いと開きたくなるし、情趣なんて優雅なことを考えている人は一体どのくらいいるのか。考えてしまう。

いつもは彼の説に飲み込まれて反論はできないが、この件については反対意見である。

何事もバランス

2010年05月01日 | Weblog
何事もバランス

お釈迦様は、物事の真理は、中道にあって、両極端にはないと、説かれたとか。

中道というと、たして2で割る式のことをすぐ考えるが、要はバランスがとれているか、どうかということだと思う。

知情意いのバランス、心と体のバランス、知識と知恵のバランスなど 。