日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

出自はままならぬ

2011年09月14日 | Weblog
出自はままならぬ  11/09/13


人はどういう境遇に生まれるか。は、己で決めることができない。

皇室や権力者や金持ちの家に生まれつくのも、極貧のスラム街に生まれつくのも、みんな天の采配である。

そして不遇の中に生まれおち、人々からいじめられ、いびられて、石持って追われ、この世の地獄に落とされたものが、身を捨てて、社会に復讐するのも、はなはだ迷惑な話ではある。
当人にしてみれば、この世の恨みつらみをはらすには、多くの罪なき人を悲惨なルツボに、陥れて辛酸の辛苦をなめさせる事が、唯一の慰めというならば、この世から、もろもろの惨劇が、きえ失せるせることは無い。
この世で時々起こる、不条理の根源を突き詰めれば、その一端は、天の采配の不条理にあるのかもしれない。

演歌とヤング

2011年09月13日 | Weblog
演歌とヤング

若者たちにしたら、あんなくらい湿っぽい歌なんて歌う気にもなれない。
同じ恋を歌うにしても、暗い詞に輪をかける短調の暗いメロディー。
それを暗い酒場で歌って気が晴れるか。

リズムもなければサウンドもない。それだから、体の中にあるリズムに乗ってこない。
そんな歌をオジタリアンとオバタリアンが歌っている。
若者がそんな中に入っていけるか。

演歌が若者に、受けないはず

女2分類

2011年09月12日 | Weblog
女2分類

ある本を見ていたら面白い事が書いてあった。引用させて貰う。

恋愛は勝った負けたの世界だという。大した恋愛経験のない人間にとってはこういうフレーズの中味が判らない。相思相愛にでもなれば、勝負に勝ったとでも言うのであろうか。
そう言う記述の中に 女性を2群に分類して論じている。

1、女優
  自分に尽くしてくれる異性を好む。尽くされるのか。イニシアチブを常に握って思い通りならないと 激怒する。
2、女官
  自分が尽くす、奉仕的。
1,にも2,にも経験したことのな僕は、頭の中でこんな2分類は無理だろうと思う。つきあってみたいのは、女官タイプで僕に対して奉仕的であれば、こちらはその倍奉仕的でなければならぬと思う。

女性をどんなタイプに分類しようとも、自分の好みのタイプに巡り会うという保証はどこにもない。女優に惚れようとも思わないし、女官に巡り会うチャンスもなかった。だから言葉の上だけで女を二分類して遊んでいるだけである。
しようむないことだ。そしてまた思う。よしんばどちらのタイプに出会いがあったとしても、それは一瞬のことで、惚れた情熱は僕の場合長続きする筈もない。所詮線香花火みたいなもので、はかない限りである。同じ惚れるならもっと長続きすることがあいてであることが望ましい。
僕の場合は、女優や女官よりは魚釣り。これには生まれてこの方情熱を失っていない。

人物がいない

2011年09月11日 | Weblog
人物がいない

現在は平時と言うより、福島原発事故 東日本大震災 紀伊半島豪雨などによって大被害を受けているから、日本国家は非常時と言っても良いのではないか。
そんな状況の中で 救国的な人物が現れない。
特に政治の世界がリーダーシップを発揮して、国家の復興や発展に寄与してみんなを引っ張っていって貰わなければならないご時世だというのに。
責任者がお粗末すぎて、今後の日本の行方は、一体どうなるのか心配しないわけにはいかない。大震災以降について書いてみる。

1,時の総理は菅首相。 いろいろな批判はあろうが、じゃ一体誰が総理だったら良かったのか。そんな人物は見あたらないじゃないか。野田総理だったらもっとてきぱきと災害処理が出来たとは思えない。強いて言えば、その任に当たってほしかったのは自民党の石破さんくらいだ。しかし考え方は全うだとは思うが行動面でどこまで実績を上げられたか。それは疑問である。 非常時にはイラカンの独断専行の方がましだったのではないか。特に浜岡原発を止めたのは評価されるべきだし、反原発を唱えたのは、時宜にかなっている。自民党には責任論はおろか、あの大事故の最中においても、まだ原子力推進を唱えたバカがいた。現状を正確に把握分析することなしに、原発を推進を唱える自民党員には国会議員の資格はないと思った。余りにも軽率で愚かだからだ。
2,海江田は物事を深く考えない上っ面な人物だという馬脚を現した。衆目の前で泣いたり、総理の座を狙って小沢にすり寄ったり、九電の原子炉再開を容認したり。国民のためになることをする以前にわがことを考える行動をとった。
これもリーダーとして値打ちのある人物じゃない
3,テレビ画面で上から目線で命令口調で物を言い、ひんしゅくを買い直ぐ辞任をせざるを得ない防災大臣もいた。
4,そして「死の町」や「放射能をうつしてやろうか」等と発言する大臣が現れた。
被災者や首長から非難囂々である。こういう事を思うだけでも現状理解が不足しているのに、それを現場を見てそう言ったと言うから、救いようがない。
どうしてこんなアホが大臣の重責を担うことになるのだろうか
5,加えて東電の無責任さ。事故を起こしながら撤退すると言ったという。事業者として社会的責任感はまるで無し。その後の処理のもたつきをを見ても、このままでこの会社を存続させる事は百害あって一利なしだ。速くつぶして第二東電を立ち上げるべきだ。会社の体質というものをかえると言うことは不可能に近いからだ。

東電社長、全面撤退

2011年09月10日 | Weblog
東電社長、全面撤退

枝野前長官「東電社長、全面撤退申し出た」
読売新聞 9月8日(木)3時2分配信
枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。
東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。菅前首相や海江田万里前経済産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題に関する具体的な経過を初めて公にした。

 枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そういう言い方だった」と指摘した。

 枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話したという。枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見方を示した。

社会的に大きな役割を果たしている電力会社が事故の際に、撤退を申し込んだと言う話は以前にも聞かされたが、事故を起こしながら、まさか逃げるとは想像だにしなかった。
普通の感覚だったら、社長自ら現場へ飛び込んで、それこそ身命を賭して事故対策をするということになるのが普通だ。
大きな事故を起こしておいて、逃げようとする根性はとても一流企業のトップが考えることではない。死力を尽くして、事故終息に当たらなくてはならないのは当然である。そのような基本的な常識も持っていない人が、社長だと言うから、東電という会社は初めから社会的責任を放棄したも同然だ。こんな器の人間は福島の現場にほりこんで肌身で今東電が起こした事故と向き合わせなくては原子力事故の意味が分かってないのだ。実に情けない会社だ。スマートグリッドを待つまでもなく、今の東電は一日も早くつぶして、新会社に作り替えないと、上から下まで腐っていては国民がそれだけ不幸だ。事故発生から東電を動きを見ていると試行錯誤ばかりじゃないか。一流会社として体をなしているのか。一日も早く新生東電が出来る事を期待する


原発教育の学校現場

2011年09月09日 | Weblog
原発教育の学校現場

無責任と無能力者が担当して作り上げた安全神話を、いろいろな教材を使って生徒に教えてきた。
僕は生徒に物を教える立場の人間として、どうして安全神話を自分なりに検証もしないままに、国が作った安全神話をトクトクと未成年者に説いてきたのか。
今になってみると、非常に恥ずかしい思いがする。
安全神話は原子力に頼ろうと国が教育の場でPRするように求めた物だ。

文科省や資源エネギぎーは補助金を出したほか原発の利点を記述した副読本を発行したりコンクールを開いたりして10億円余りの金を使ってきた。

小中の教科書の検定では、「原発の問題点を強調しすぎ」だとか「自然エネルギの有望さについて誇張しすぎ」など、教科書検定で意見が付き暗に修正が行われた 。これは重大な問題だ。
国策とはいえ、科学的に確信の持てない(例えば原子力は人間の力でコントロール出来ない部分があるじゃないか )部分までも修正を要求した。
この検定者は早速責任を問われるべきである。誰が検定したかは調べれば直ぐ判ることだ。国民の前で釈明すべきだ。

こういう事を見逃すから国民は官僚からバカ使い扱いされるのだ。責任は当然とるべきだ。いやとらすべきだ。
そうすれば、安易に国策にのって真実の記述(今回の事故で求めた修正部分が間違っていた)を見失う愚を避けるように、検定において、より真剣になるだろう
マスコミに追求をお願いしたい 。
とにかく何も知らない子供に、国家が嘘を教える事を強制したのは大問題である。

その筋の人に頼む

2011年09月08日 | Weblog
その筋の人に頼む

島田紳助の問題から、やくざとのつきあいは、日の目をあびるようになった。社会正義の面からも、反社会的な勢力の存在をなくさなければならない。
理屈ではその通りである。
問題があれば警察や、弁護士に聞いて、法の下に堂々と正義の道を歩いて解決すればよい。しかしそれで複雑な利害が絡む、人間社会で全てが解決出来るとは思えない。
こんな事を経験したことがある。
変な男に高校生が狙われて、刃物で斬りつけられそうになった。心当たりは何もないのだが、何ヶ月に1回かは付け狙われ、つけ回される事が起きた。
狙われた女子高校生は、全く心当たりはないので、勿論警察に相談したし、精神的な被害届もだした。それもそれらしい気配を感じる度に事情説明に警察に行った。
ある日学校から帰宅して自転車置き場に、止めて家に帰ろうとしたときノミでもって犯人が彼女の背後から襲ってきた。幸い自転車の 前輪にノミが当たりタイヤは切り裂かれた。彼女はきゃーっと言う悲鳴を上げた。その声を聞いた近所の人は自転車に乗って逃げ逝く犯人の後ろ姿を目撃した。
もちろん110番し、パトカーがやって来た。両親を含めて詳しく事情を聞かれて調書を取られた。両親は事故未然防止を強く訴えたが、巡回回数は多くするが、それ以上は事件が起こらないと、犯人を捕まえるこは出来ないという、何とも頼りない返事だった。僕は知り合いのヤンキーに彼女のボデイガードを頼んだ。勿論バイト代は支払った。それから犯人は姿を消した。もう20年も経っているから再発はないだろう。彼女は性格からして、他人に迷惑を掛けるような、恨みを買うような人柄ではなかった。事故に遭わなくて当然だ。

紳助事件で思いだした。相手がやくざの大物だからいざこざは収まったのだろうが、右翼にたいしては、果たして警察に依頼する方が良かっただろうか。被害が出れば警察は動くが、予防では動くまい。とすればやはり解決出来る力のある人に頼らざるを得ない。たとへそれがその筋の人であっても。そして困り果てていたところを助けて貰ったのだから、その恩義は生涯ついて回る。普通の感覚でも手に負えない事件に巻き込まれたときは、必ずしも警察だけで解決出来るとは限らない。
理屈と実際の場面が違う典型的な例だと思うが、今後もこの種の事は起こるだろう。

大人の歌がなさ過ぎる

2011年09月07日 | Weblog
大人の歌がなさ過ぎる


近頃大人の歌がなくなってきた。昭和時代の歌を5,60年歌っている。これも後2,30年たてば消えてなくなるだろう。
去年もヒット曲がなかった 。今年も口ずさみたくなるような歌は後半になっても出てこない。これじゃレコード会社は持たないのじゃないか。

1年にいい曲は1曲でよい。高齢者も若い人もともに歌えるような歌は出ないものか何が原因だろうか。
時代がいかに変わろうとも 、人はうれしいにつけ悲しいにつけ、心の思いを歌に乗せて歌うようにできてるから、歌がなくなったということではない。
作る側にあるのか、それを世に出す側にあるのか、歌を歌える場所がなくなったのか。
いずれにせよ、歌おうという気にならない歌ばかりが音として流れている現状は何とかしないと、、、いつもそう思う。


顔より学問

2011年09月05日 | Weblog
顔より学問

人は、かたち、ありさまの優れたらむこそ、あらまほしかるべけれ。、、、

人間は五感でキャッチ出来るもので、判断するから、ちょっと見は中味が無くても男前がよいに決まってる。中味はないけど、顔だけで渡世している男がいくらでもいる。
本来的なことを言えば、人はありようも、考え方籾な違うから、男前だけでは決められない。だから実際は自分にあう人がよいのであって、見場だけでは決められない。

勿論学問をしたひとが現実には、必ずしも魅力的であるとは言えない。
男性が身につけたい事として、和歌、学問、漢詩、楽器演奏、酒は相手が出来るくらい飲む、等を例に挙げているが、何か隠棲のわびしさを感じる。それが法師的なのであろうが、僕は男はパワーとエネルギーにあふれ、抜群の行動力を持っているのが、あらまほしき男で、さらに付け加えると、単純、剛毅、誠実、奉仕精神義侠心に富む男がよい男と言うところだ。

序でに言えば女性だって中味だと思う。絶世の美人でも、眺めている分には良いが、話してみると、まるで会話がかみ合わない場合は、美人だと認めつつも彼女から離れたくなる。
総じて男女は見かけが良ければ、良いという物ではない。美男美女は1つの要素であって、それは決して邪魔にならないが、深くつきあおうと思ったら、見場重視はやめた方が良い。

冷淡だとは思うが

2011年09月04日 | Weblog
冷淡だとは思うが

太平洋を北上して、日本にさしかかった今回の台風は紀伊半島の南東斜面に大雨を降らせた。雨量は降り始めてから、大台ヶ原近くでは、1800ミリに達したと言うから、すごい量で、早速災害をもたらした。

1800ミリの雨量というのは、畳一枚にバケツ1800杯分の水を流したような感じだから、堤防を越えて川の水があふれ出すのも仕方がないが、これほどの洪水や土砂災害はおそらく一生に一度、逢うか逢わないかの自然災害で、テレビの画面を見ながら、どうすることも出来ない歯がゆさを感じた。

東日本大災害に比べると、その規模は小さな物だが、それでも死者が10人も出て行方不明者が何十人となると、災害の大きさは同じように思える。紀伊半島の南東斜面の山々で雨になって降り落ちた水は、降りのこしを大阪平野にばらまいたくらいで、葛城山から以西は対して降らなかった。
おきなくてもいい大地震、ふらなくてもいい豪雨。続け様に来ると、日本の国家が何かに呪われているような気にもなる。

昨夜の豪雨を尻目に、関心は女子サッカーにあった。2-1で勝ったとはいうものの、後半は応援どころか「なにやってんだ」と何回画面にむかって怒鳴ったことか。勝ったとはいうものの、勝利の喜びは湧いてこない。後味は悪かった。

おわったとき、窓の外を見たが、雨らしい雨は降っていない。テレビは色々大変なことを報道しているが、だからといって紀南地方の被災ぶりが少しもぴーんと来ない。この時間帯には土砂崩れが起きていたところもあるはず。でも身辺は平常とほとんど変わりなく、平常心で過ごしている。

人間とは目先の動物だと言うことを思い知らされた。1800ミリの雨が降ろうが、我が身には何の異変も起こらない。だからなますを吹くわけでもない。結局人の不幸に涙すると言っても、それは視野に入る程度の近さだけにおいてである。遠いところで起きていることは、痛くもかゆくもない。思いやり等と言うけど人間は基本的には冷淡な動物なんだろうか。自分の態度を見てそう思った。

人の高齢化について

2011年09月03日 | Weblog
人の高齢化について

兼好法師はどのように考えていたか、要約、引用してみよう。

人生は無常だから、趣がある。長生きをすればよいと言うものではなく、弊害も出てくる。例えば厚かましくて恥知らず、 世俗の欲望が強くなり、慎ましさや、たしなみを無くし、人生が無常であることも忘れる。
だからそう言う世代になり始める40代でこの世を去るのが良かろう
と彼は言う。

彼が生きた1300年代と2000年代とでは文明の進歩が違う。だから彼の言う40代というのは現代の60才代の世代に該当すると考えてみよう。

確かに彼が指摘するように、長生きすると「この次は、あれ」式に欲深になり、いつまで生きたって生き足りない心地がするだろう。
だからといって、死は向こうからやってくるもので、こちらから求めるものではない
現代は文明の恩典に浴した結果、長生きしているわけで、これは自然なことである。
ただし長生きは自分の身繕いが出来る状態でこそ、めでたい物であって、他人の助力を受けないと、自力では生きていけない状態になったとき、人はそれでも長生きしたいと思うだろうか?
速くお迎えが来てほしいという気持ちが起こっても、それは当然だ。

今の現状から一般論を言えば、身繕いがぼつぼつ出来なくなり始める80才くらいが、生きどころだろう。

いや。待て。ひょっとすると、彼は今日の老人ホームや介護の現状を頭の中で想像して、現代の高齢化社会では、長生きも考えものだ。社会的に迷惑だよと、言っているのかも知れない。
確かにそう言う面はあるが「生きているからこそ」という側面もあり一概に長寿が無駄であるとは言い切れまい。

長寿は恥多しと言えども、めでたいことである。と僕は結論付けておこう。

久米の仙人の神通力7-29

2011年09月02日 | Weblog
久米の仙人の神通力

用事もないのに街をうろうろするよりは、自宅に引きこもっている方がましのなで、1月ばかり引きこもっていた。
今日は久しぶりに繁華街に出てみた。おいしい食べ物を探す訳でもなく、買い物の当てがあった訳じゃない。目的は何もない.ひょこっと出たという感じ。

驚いたことに、賑やかな商店街を歩く今風のぎゃのスカートの短さである。下着すれすれに見えるほど短い。
おそらく男の視線を誘う目的だろうと思うが、男なら老若を問わず視線は引きつけられる。

露骨で即物的で白い脛を見せつけられれば、目をそらしたいというのは嘘で、男なら誰でも本心では視線を奪われる。自制心をちょっとでもゆるめれば、痴漢に変身してもおかしくはない。
女の色香に惑わされる色欲をもつ人の心は愚かだと、兼好法師は言う。

「人の世の心を惑わすこと、色欲にはしかず。,,,略、、
久米の仙人の物洗ふ女の脛のしろきをみて通をうしないけむは」

いえいえ法師殿。
神通力を失わせるほどの、魔力を持っているから、世の中に活力が生まれようというもの。金銭欲も名誉欲も下をたどれば、この女の色香という魔力に起因することが多い。 男性から見て、後ろでその力を引き出しているのは他ならぬ女性であることを思う時、人の心を惑わす色香は大切な物だし、色香に迷う人の心は愚かどころか、それが世を動かす原動力の1翼をになっていることを思うとき、法師のこの見方は正鵠を得ているとは思えない。
おそらく法師はこんな事ご存じの上で、本心とは違うことを書いたのだろう。
法師よ。男ならこんなこと、アウンの呼吸でわかるじゃないかね。

徒然草

2011年09月01日 | Weblog
徒然草

兼好法師の徒然草を始めて読んだのは、確か中学生になってからだと、記憶している。
高校生になると、教科書に出てくるので余計に興味をもった。
大学生になってからも、これは愛読書で、何時の場合も、彼の文章に説得されて引きずり込まれた。この書は座右の書となっただけではなく、人生問題については折にふれて、ページをめくり、それ内の考え方という知恵を頂いた。

学校の古典の授業の時は、「春はあけぼの」や「源氏物語」に比べて、中世文なので、いわゆる古典よりは読みやすかったし、この書は僕にとっては教訓を学ぶことが出来たので、未だ持って手放すことは出来ない。
持ち時間があれば、毎日少しづつではあるが、読んでいる。
最近は彼が「命」や「命の楽しみ方」について書いてあるのを我が身にひき比べて読んでいる 。
今の感覚では芸事の基本を説く、「守破離」の破に達するか達しないかのレベルである。彼(のものも見方や価値観)から抜け出したいのだが、結果的には彼の見方に自分の考えを重ね合わせている。未だに引きずり込まれて読んでいる。
それは時代背景を理解してと言うようなものではない。彼の説は7,800年昔の価値観であり、ものの見方であるが、本質的な部分では現代と何ら変わることがないと思えるところを、突いてくるので、ついつい引きずり込まれてしまうのである。

そうはいっても僕もひとりの人間で、彼とは生い立ちも性格も皆違う。そこで時々僕の考えを守離離から抜け出さなくてはと思い、日々法師との問答のやりとりをしている。これについては改めて後日書いてみたい。