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■【きょうの人】 0519 隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖

2020-05-20 07:07:23 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0519 隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖

 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。

 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。

 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。

 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。

 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。

 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

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■【きょうの人】 0518 道了(妙覚道了) 感誉上人

2020-05-18 05:46:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0518 道了(妙覚道了) 感誉上人

 気になる人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 道了(妙覚道了)

 みょうかくどうりょう
 生没不詳

 室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧で、妙覚は字です。出生地などについては不詳です。道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称されます。

 1394年(応永元年)曹洞宗の僧了庵慧明が、最乗寺を開創しますと、慧明の弟子でありました道了は、その怪力により寺の創建に助力しました。

 師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って神通力により小天狗となって空高く消えていったと伝えられ、相州南足柄・曹洞宗最乗寺の守護神として明覚宝殿に祀られています。

 道了大菩埵と尊崇され、最乗寺境内に、小天狗の狐に乗った像も祀られています。

 関東屈指の霊場の一つとして、庶民の間でも信仰を集めて講が結成されたり、また、江戸の両国などで出開帳が行われたりしました。



■ 感誉上人(感誉存貞)


 かんよぞんてい
 1522年(大永2年)3月-1574年6月7日(天正2年5月18日)

 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主となり、檀林の掟制三十三条を定めた他、大長寺など、各地に浄土宗の寺院を建立しました。

 感誉存貞は、後北条氏重臣、大道寺政繁の甥で小田原に生まれました。

 小田原の伝長寺で出家した後、弘経寺で修行し、修行後は、小田原に戻り伝肇寺の住職となりました。

 感誉存貞は北条一族の信仰を集め、1548年(天文17年)には、北条綱成の開基により、東郡岩瀬村(現在の鎌倉市岩瀬)に、大長寺を建立しました。

 翌1549年(天文18年)には大道寺政繁の母、「蓮馨」の開基により、川越に蓮馨寺を建立するなど多数の寺を開きました。

 1563年(永禄6年)、増上寺に移り法主となり、増上寺では檀林の整備を行いました。3年後、増上寺の法主を大長寺二代目住職雲誉円也に譲り、その後は、地方を放浪し、1574年(天正2年)に大長寺へ戻り、同年5月18日に黄泉の国に行きました。

 

 

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■【きょうの人】 0517  臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身

2020-05-17 05:46:01 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0517  臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身

 気になる人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身

 臨済義玄(りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師)
 ?-867年

 中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖。曹州南華県(山東省)出身

 深く仏教を好み、諸方に遊び博く、経論を探り、最も戒律を究めた人です。

 彼の言行は、弟子の三聖慧然によって「臨済録」としてまとめられています。


「語録の王」というあだ名がつくほど、いろいろな言葉を残しているようです。

 人の上に立つ人や経営コンサルタントなど、変革を定着させ、企業の成長を願う人は、「口癖を持つ」ということが大切だと考えます。

 私事で恐縮ですが、「ウラを取れ」というのが私の口癖言葉のひとつです。

 物事というのは、多面性を持っています。噂を鵜呑みにして、それを真実だと思い込んでいる人が多いです。

 あるビジネスパーソンが、濡れ衣を着せられ、左遷されることになりました。

 というような話は、三文小説にもよく出てきますが、そのきっかけが根も葉もない噂であったなどというのもざらにあります。

 私達経営コンサルタントは、顧問先の社員さんからヒアリングをし、それを経営アドバイスの材料にすることがあります。

 その中には、フェイクもあれば、推量もあり、その人の個人的な見解であることもあります。これらをそのまま判断材料にしては、アドバイスの方向が間違えてしまうことがあります。

 そのために「ウラを取る」とか「現場百遍」という、刑事物語に出て来る言葉を、経営現場で私は使います。

 

 

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■【きょうの人】 0516 呂尚(太公望) 釣り人でなくても知っている人

2020-05-16 07:34:17 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0516 呂尚(太公望) 釣り人でなくても知っている人

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 呂尚(太公望)

 りょしょう
 生没不詳

 紀元前11世紀ごろの古代中国春秋時代・周国の軍師としてしられ、後に、斉の始祖として現在の山東省を中心にした国です。

 呂尚の姓は姜、氏は呂、字は子牙とか牙、諱は尚です。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれます。

 謚が「太公」であることから、斉太公、姜太公の名でも呼ばれます。

 呂尚は、釣りをよくしていたことから「太公望(たいこうぼう)」と呼ばれ、日本では、釣り好きの人達を表す代名詞として使われます。

 

 

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■【きょうの人】 0515  摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継者 第2祖と呼ばれる

2020-05-15 05:46:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0515  摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継者 第2祖と呼ばれる

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継(第2祖)

 まかかしょう
 生没不詳


 摩訶迦葉、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波、大迦葉と呼ばれる、釈迦十大弟子の一人です。

 仏教教団で釈迦の後継(第2祖)とされていて、釈迦の死後、初めての結集(第1結集)の座長を務めました。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った人として知られています。

 迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前も見受けられるますが、摩訶迦葉とは別人です。

 生い立ち等、伝説が多く、諸説あり、その一つによれば、マガダ国の王舎城付近の摩訶波羅陀(マハーハーダラ)村のバラモンである尼拘律陀羯波(ニグローダ・ゴーパ)の子で、畢鉢羅樹(ピッパラ=菩提樹)の下で生まれましたので、幼名を畢鉢羅耶那(ピッパラヤナ、ピッパリ)といったそうです。

 8歳でバラモンに入門し修行してすべてを得て、さらに出家して求道したいと考えました。

 迦葉は出家してもバラモンの修行をしていましたが、王舎城と那荼陀(ナーダダ)村の間にある一本のニグローダ樹下に坐していた釈迦と出会い、ついに仏弟子となり名前を正式に迦葉と改め竹林精舎に到りました。

 釈迦に入門したとき、すでに32相中、7相を具えていたとされ、8日目に阿羅漢となったと伝えられています。

 

 

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■【きょうの人】 0514 微妙大師授翁宗弼 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧

2020-05-14 05:46:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0514 微妙大師授翁宗弼 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 微妙大師授翁宗弼 514

 びみょうだいし じゅおうそうひつ
 永仁4年(1296年)- 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日)

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、諱は、後醍醐天皇から授かった宗弼、39歳で出家し、字は授翁です。諡号は、円鑑国師、微妙大師です。父は南朝忠臣藤原宣房で、宗弼は、万里小路藤房と同一人物とする説もあります。

 建武の新政の際には、後醍醐天皇を諫めたが受け入れられず、ひそかに洛北岩倉で不二大徳に支持して得度しました。20年間隠遁した後、京都妙心寺の関山慧玄に参禅して、その法を継ぎ、妙心寺2世となりました。


 宗弼は、客観的なものの見方をすることができる人だったようで、後醍醐天皇による建武の新政における考え方に危機感を持ちました。天皇を諫めましたが、聴く耳を持たなかったようで、足利尊氏が離反するなど、人心掌握力にも欠けていたようです。

 ビジネスパーソンが、変革など、何か、ことを起こそうというときには、周到なる準備が必要です。また、周囲の人間をキチンと掌握していませんと、離反者が出てしまいます。一人離反者が出ますと、離反する人が続出してしまう懸念がありますので、離反者が出ないように、心する必要があります。

 起こそうとするコンサルタントデプトは何かを、明確にし、それを関係者に周知徹底する必要があります。

【妙心寺サイト】

 正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の本山です。

 インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。

 1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっています。

 お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。

 開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。

 自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。

 

 

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■【きょうの人】 0506 足利義満 金閣寺を建立した以外は・・・

2020-05-07 07:35:27 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0506 足利義満 金閣寺を建立した以外は・・・

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 足利義満 金閣寺を建立した以外は・・・

 あしかが よしみつ
 正平13年/延文3年(1358年)8月22日(新暦:9月25日) - 応永15年(1408年)5月6日

 室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)で、金閣寺を建立した人として歴史の時間にも学ぶ人が多いのではないでしょうか。父は第2代将軍・足利義詮で、、母は側室の紀良子といわれています。 

 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させました。室町幕府の政治、経済、文化の最盛期を築いたといえます。

 その権力を活かして、鹿苑寺(金閣)を建立したのですが、北山文化を開花させた人と言えます。

 邸宅を、京都北小路室町に構え、「室町殿」とも呼ばれたことから「室町幕府」という名称が定着しました。

 

 

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■【きょうの人】 0505 日朗 特に鎌倉では重要な人

2020-05-05 07:11:22 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0505 日朗 特に鎌倉では重要な人

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 日朗 特に鎌倉では重要な人

 にちろう
 寛元3年4月8日(1245年5月5日)- 元応2年1月21日(1320年3月1日)

 鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人です。号は筑後房、大国阿闍梨とも称します。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖です。下総国の出身、父は平賀有国です。

 1261年(文応2年)日蓮を師として法を学び、1271年(文永8年)日蓮の流罪の際に、土牢に押込となりました。

 1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っています。但し、これは伝承で幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはあり得ず、誤伝である可能性が高いといわれています。

 日蓮滅後に、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、日蓮の遺言に背き勝手に持ち去っています。

 1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築きました。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立しました。鎌倉光則寺は、1274年に、日朗を開祖として創建されました。

 1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。

 

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■【きょうの人】 0503 ■ 微妙大師授翁宗弼 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧

2020-05-03 05:46:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0503 ■ 微妙大師授翁宗弼 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 微妙大師授翁宗弼

 びみょうだいし じゅおうそうひつ
 永仁4年(1296年)- 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日)

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、諱は、後醍醐天皇から授かった宗弼、39歳で出家し、字は授翁です。諡号は、円鑑国師、微妙大師です。父は南朝忠臣藤原宣房で、宗弼は、万里小路藤房と同一人物とする説もあります。

 建武の新政の際には、後醍醐天皇を諫めたが受け入れられず、ひそかに洛北岩倉で不二大徳に支持して得度しました。20年間隠遁した後、京都妙心寺の関山慧玄に参禅して、その法を継ぎ、妙心寺2世となりました。


 宗弼は、客観的なものの見方をすることができる人だったようで、後醍醐天皇による建武の新政における考え方に危機感を持ちました。天皇を諫めましたが、聴く耳を持たなかったようで、足利尊氏が離反するなど、人心掌握力にも欠けていたようです。

 ビジネスパーソンが、変革など、何か、ことを起こそうというときには、周到なる準備が必要です。また、周囲の人間をキチンと掌握していませんと、離反者が出てしまいます。一人離反者が出ますと、離反する人が続出してしまう懸念がありますので、離反者が出ないように、心する必要があります。

 起こそうとするコンサルタントデプトは何かを、明確にし、それを関係者に周知徹底する必要があります。

【妙心寺サイト】

 正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の本山です。

 インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。

 1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっています。

 お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。

 開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。

 自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。

 

 

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■【きょうの人】 0331 性空 平安時代中期、京都に生まれた天台宗の僧

2020-03-31 08:45:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0331 性空 平安時代中期、京都に生まれた天台宗の僧

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

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 性空 平安時代中期、京都に生まれた天台宗の僧

 しょうくう
 延喜10年(910年)-- 寛弘4年3月10日(1007年3月31日)

 性空は、平安時代中期、京都に生まれた天台宗の僧で、俗名は「橘善行」といいます。

 36歳の折、比叡山で慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家しました。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、西国三十三所霊場の一つであります圓教寺を創建しました。

 そのことから「書写上人」とも呼ばれます。圓教寺には、肖像彫刻・性空像(重要文化財)があります。

 山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者としても知られています。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳で亡くなりました。一説により増すと80歳ともいわれています。


 

 

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