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■【きょうの人】 0330 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖

2020-03-30 07:08:48 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0330 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖

 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師

 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

 

 

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■【きょうの人】 0328 微妙大師 授翁宗弼 後醍醐天皇との関わりの深い人

2020-03-28 07:50:58 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0328 微妙大師 授翁宗弼

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 微妙大師授翁宗弼

 びみょうだいし じゅおうそうひつ
 永仁4年(1296年)- 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日)

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、諱は、後醍醐天皇から授かった宗弼、39歳で出家し、字は授翁です。諡号は、円鑑国師、微妙大師です。父は南朝忠臣藤原宣房で、宗弼は、万里小路藤房と同一人物とする説もあります。 

 建武の新政の際には、後醍醐天皇を諫めたが受け入れられず、ひそかに洛北岩倉で不二大徳に支持して得度しました。20年間隠遁した後、京都妙心寺の関山慧玄に参禅して、その法を継ぎ、妙心寺2世となりました。


 宗弼は、客観的なものの見方をすることができる人だったようで、後醍醐天皇による建武の新政における考え方に危機感を持ちました。天皇を諫めましたが、聴く耳を持たなかったようで、足利尊氏が離反するなど、人心掌握力にも欠けていたようです。

 ビジネスパーソンが、変革など、何か、ことを起こそうというときには、周到なる準備が必要です。また、周囲の人間をキチンと掌握していませんと、離反者が出てしまいます。一人離反者が出ますと、離反する人が続出してしまう懸念がありますので、離反者が出ないように、心する必要があります。

 起こそうとするコンサルタントデプトは何かを、明確にし、それを関係者に周知徹底する必要があります。


【妙心寺サイト】

 正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の本山です。

 インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。

 1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっています。

 お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。

 開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。

 自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。

 

 

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■【きょうの人】 327 千利休 茶聖と呼ばれる天下三宗匠の一人

2020-03-27 07:38:47 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 327 千利休 茶聖と呼ばれる天下三宗匠の一人

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 千利休 茶聖と呼ばれる天下三宗匠の一人

 せん の りきゅう、せん りきゅう
 大永2年(1522年)-天正19年2月28日(1591年4月21日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての商人で、むしろ茶人として広く知られています。

 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、「茶聖」とも呼ばれています。また、今井宗久や津田宗及とともに、茶湯の天下三宗匠と称せられます。

「利休七哲」に代表される数多くの弟子を持ち、その子孫は、茶道の三千家として続いています。

 豊臣秀吉の側近でもあり、茶道を通じて多くの大名にも影響力をもったといわれていますが、秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれたことはよく知られています。

 不和の真相については諸説があり、定説はないようです。


 茶道を嗜む人でなくても利休を知らない人はいないでしょう。お恥ずかしながら私は、コーヒーショップで「お茶」はしますが、茶道の「茶」はしません。でも、時々妻が茶を入れてくれますが、何かホッとします。やはり、日本人なのでしょうか。

 

 

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■【きょうの人】 0326 真盛上人 天台真盛宗の宗祖ですから偉いお坊様なのですね

2020-03-26 07:36:11 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0326 真盛上人 天台真盛宗の宗祖ですから偉いお坊様なのですね

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 真盛上人

 しんせい
 嘉吉3年1月28日(1443年2月27日) - 明応4年2月30日(1495年3月26日)
 諡号は円戒国師・慈摂大師

 戦国時代の天台宗の僧で、伊勢に生まれました。天台宗真盛派(現在の天台真盛宗)の宗祖です。

 一四歳で剃髪し、幼名から「眞盛」と名を改めました。

 比叡山西塔の慶秀に師事し、天台宗の教学を20余年にわたって学びました。その後、黒谷青龍寺に隠遁し、「往生要集」に拠り称名念仏を唱えました。戒律と称名念仏の一致、無欲と慈悲などを説きました。

 かつて良源や源信などが住み、円観が円頓戒の本寺としたこともある近江国坂本の西教寺を再興して、天台宗真盛派の本寺としました。

 近江・伊勢・越前を巡錫(じゅんしゃく)し、後土御門帝に円頓戒を授け「円戒国師」の号を下賜されました。また、明治天皇より「慈摂大師」の号も賜っています。

 

 

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■【きょうの人】 0322 鉄眼道光 江戸時代前期の黄檗宗の禅僧

2020-03-25 16:51:53 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0322 鉄眼道光 江戸時代前期の黄檗宗の禅僧

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 鉄眼道光 322

 正字: 鐵眼道光(てつげん どうこう)
 寛永7年1月1日(1630年2月12日) - 天和2年3月22日(20日説あり)(1682年4月27日)

 江戸時代前期の黄檗宗の禅僧、諡号は宝蔵国師。

 肥後国益城郡守山村(現・熊本県宇城市)に生まれ、13歳で出家しました。明暦元年、隠元や木菴に学びました。

 大蔵経の観光のために全国行脚を行い、1678年(延宝6年)に完成しました。宇治黄檗山に宝蔵院を建てて、その木版を貯蔵しました。

 その後、金禅寺(大阪府)、海蔵寺(東京都)など7か寺を開くなどの功績もあります。

 

 

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■【きょうの人】 0321 弘法大師 空海 どの様な人か知っているようで知らない 

2020-03-21 05:45:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0321 弘法大師 空海 どの様な人か知っているようで知らない 

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 弘法大師 空海

 こうぼうだいし くうかい
 宝亀5年(774年)-- 承和2年3月21日(835年4月22日)高野山にて入寂

 空海は、平安時代初期の僧侶で、弘法大師の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られ、真言宗の開祖です。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。

 讃岐国に生まれ、はじめは経書を学び、20歳で出家しました。延曆22年に東大寺戒壇院で具足戒(出家した修行者 が遵守すべき戒)、翌年唐に渡り、新語温州の協議を受けました。大同元年に帰朝し、真言宗を広め始めました。


 空海は、最澄としばしば比較され、最澄が空海に教えを請うたときに、冷たい態度を取ったということが語られます。

 真偽の程はわかりませんが、ちょっとした言動が、後々までマイナスのイメージに繋がることがありますので、気をつけなければいけませんね。

  

  修善寺独鈷の湯 空海ゆかりの地

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/shizuoka/shizuoka-izu-shuzenjionsen.htm

 

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■【きょうの人】 0320 上杉景勝 謙信ほど有名ではないが豊臣政権の五大老の一人

2020-03-20 05:03:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0320 上杉景勝 謙信ほど有名ではないが豊臣政権の五大老の一人

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 上杉景勝

 うえすぎ かげかつ
 1556年1月8日 - 1623年3月20日

 戦国時代から江戸時代前期にかけての大名で、豊臣政権の五大老の一人です。米沢藩の初代藩主となり、上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目となります。

 初名は長尾顕景で、同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めました。

 実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となりました。

 会津藩120万石を領し、秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北しました。

 戦後、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となりました。(【Wikipedia】を基に作成)

 

 

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■【きょうの人】 0316 ■ 鎮西上人 ■ 渋沢 栄一

2020-03-18 07:24:38 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0316 ■ 鎮西上人 ■ 渋沢 栄一

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 鎮西上人

 ちんぜいしょうにん
 別名 弁長聖光(べんちょうせいこう)
 応保2年5月6日(1162年6月20日) - 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日)

 平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。鎮西義の祖。父は古川則茂。字は弁阿(べんな)。房号は聖光房(【Wikipedia】)

 14歳で出家し、比叡山に登り、短大集を学び、秘奥を究めたと言われています。

 後に、故郷の筑前に帰り、油山の学頭職に補せられますが、弟の死に遭遇し、無常を感じて建久8年に上洛しました。

 そこで法然に謁(まみ)え、浄土念仏の要道を聴き、専心法然に支持して浄土門に期すことになりました。

 元久元年、浄土宗の正統を伝道し、鎮西に帰り、善導寺を建立しました。


 人の「死」というのは、人間の生き方を変える契機となるほどのことなのですね。

 私事ですが、中学二年の時に祖母を亡くしました。祖母からは、「偉くなっても稲穂を忘れてはいけないよ」という言葉を始め、いろいろと教えられました。

 祖母の死に遭遇したときに、いろいろな教えをもとに生きていくということを墓前で誓ったことを鮮明に記憶しています。

■ 渋沢 栄一 生誕

 しぶさわ えいいち
 天保11年2月13日(1840年3月16日)-昭和6年(1931年)11月11日)

 日本を代表する実業家のひとりで、慈善家として知られています。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵で、雅号は「青淵(せいえん)」です。

 江戸時代末期に、名主身分の農民でしたが武士(幕臣)に取り立てられました。

 明治政府では、大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行いました。

 退官後は、実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立や経営に、500社以上に関わりました。

 二松学舎(現二松学舎大学)第3代舎長を務めたり、商法講習所(現一橋大学)、大倉商業学校(現東京経済大学)の設立にも尽力しています。

 これらの功績が高く評価され「日本資本主義の父」と称されています。

 論語を通じた経営哲学でも広く知られています。(日本経営士協会理事長藤原久子先生がブログで紹介:https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/44c1677ddc6d92a589c21d421e4150ad">https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/44c1677ddc6d92a589c21d421e4150ad

 令和6年(2024年)より、新紙幣一万円札の顔となります。また、令和3年(2021年)に、渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送。 (【Wikipedia】を基に作成)

 東京都飛鳥公園内に、渋沢栄一資料館があります。
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/kitaku-asukayama.htm">http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/kitaku-asukayama.htm

 

 

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■【きょうの人】 0315 ■ 智証大師 円珍 天台寺門宗(寺門派)の宗祖

2020-03-15 05:35:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0315 ■ 智証大師 円珍 天台寺門宗(寺門派)の宗祖

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 智証大師 円珍

 ちしょうだいし/えんちん
 弘仁5年3月15日(814年4月8日- 寛平3年10月29日(891年12月4日)

 平安時代の天台宗の僧で、天台寺門宗(寺門派)の宗祖でもあります。

 法号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」で、諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)と称し、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人ですので、最澄・空海らと肩を並ぶお人なのです。

 讃岐国(香川県)金倉郷に誕生しました。その地の豪族・佐伯一門のひとりで、俗姓は「」和気」といいます。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたるといわれています。

 15歳で比叡山に登り、義真に師事、12年間の籠山行を終えました。

 役行者を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼しました。吉野での修験道の発展に寄与することになり、承和13年(846年)には、延暦寺の学頭となりました。

 仁寿3年(853年)に、新羅商人の船で唐に向かう途中で暴風に遭って台湾に漂着したいりしました。

 天安2年(858年)帰国後、比叡山の山王院に住したの地、第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜りました。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上におきましても注目されることです。

 

 

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■【きょうの人】 0310 ■ 性空 天台宗の僧

2020-03-10 08:35:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0310 ■ 性空 天台宗の僧

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 性空

 しょうくう
 延喜10年(910年)-- 寛弘4年3月10日(1007年3月31日)

 性空は、平安時代中期、京都に生まれた天台宗の僧で、俗名は「橘善行」といいます。

 36歳の折、比叡山で慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家しました。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、西国三十三所霊場の一つであります圓教寺を創建しました。

 そのことから「書写上人」とも呼ばれます。圓教寺には、肖像彫刻・性空像(重要文化財)があります。

 山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者としても知られています。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳で亡くなりました。一説により増すと80歳ともいわれています。


 

 

 

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