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■【きょうの人】 0308 俊じょう(月輪大師) 本日ゆかりの人

2020-03-08 08:15:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0308 俊じょう(月輪大師)

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 俊じょう(月輪大師)



 しゅんじょう/がちりんだいし
 仁安元年8月10日(1166年9月6日)- 嘉禄3年閏3月8日(1227年4月25日)

 字は「我禅」、号は「不可棄」、勅号は「大興正法国師」です。一般には、「月輪大師(がちりんだいし)」と呼ばれることが多いです。

 鎌倉時代前期の僧で、肥後国飽田郡の出身ということはわかっていますが、出自については不詳です。

 土御門帝正治元年、中国・宋で12年間修行をしました。そこでは、四分の律並に天台、密禅の諸宗を学びました。

 帰国後泉涌寺に入り、真言宗泉涌寺派の宗祖となりました。

 貴賤を問わず、民と接したことから、その得をしたい、帰依する人が多かったと言われています。

 

 

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■【きょうの人】 0307 アリストテレスの命日 307

2020-03-07 08:03:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0307 アリストテレスの命日 307 

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 アリストテレスの命日 307

  3月7日は、ギリシャの哲学者アリストテレスの命日でもあります。アリストテレスはプラトンの弟子であることも、またソクラテスやプラトンと共に、欠かすことのできない哲学者です。自然研究面での業績が大きいだけではなく、イスラム世界での思想上の影響が大でもあります。

 高校の時の世界史の先生が、大変ユニークな先生で、歴史上の逸話をいろいろと話くれました。ギリシャのアゴラに行かれた方はご存知でしょうが、弟子たちと廊下を歩きながら議論を交わしたと言います。アリストテレスは、アレクサンダー大王の家庭教師であったというくだりは忘れられません。

 ロジカル・シンキングなどを学ばれた方だけではなく、演繹法とか三段論法という論理的思考法についてはご存知な方が多いでしょう。経験的事象をもととして演繹的に事実を列挙して思考・分析することから、演繹法が広く広まりました。

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■【きょうの人】 0305 聖覚 鎌倉時代の僧・歌人

2020-03-05 09:47:10 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0305 聖覚 鎌倉時代の僧・歌人

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 聖覚

 しょうかく、せいかく
 仁安2(1167)-文暦2(1235)3月5日
 安居院房(あぐい)、安居院法印

 鎌倉時代初期の僧であり、歌人でもありました。平安時代後期の学者である信西 (藤原通憲) の孫で、安居院 (あぐい) に住しました。

 父の業を継ぎ、説経や唱導の名人で、後鳥羽院の信任も得ています。兼実・定家等と最勝講・仏事を通して交流しています。

 天台宗の僧ですが、法然の門に入り『唯信抄』 (1221) を書いています。親鸞からも尊敬され、親鸞は『唯信抄』を人々にすすめ,それをもとに,『唯信抄文意』を著したと言われています。

 承久の乱で但馬に流された雅成親王は、承久三年(1221)、聖覚に念仏の用心について昇格に請ったりしています。

 歌人でもあり、『新勅撰集』や『続千載集』にも掲載されています。

 

 

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■【きょうの人】 0314 善導大師 中国浄土教(中国浄土宗)の僧

2020-03-03 07:29:58 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0314 善導大師 中国浄土教(中国浄土宗)の僧
  

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 善導大師 中国浄土教(中国浄土宗)の僧

 ぜんどうだいし 
 大業9年(613年)-- 永隆2年3月14日(681年4月7日。3月27日(4月20日)とも)

 中国浄土教(中国浄土宗)の僧で、酒州に生まれ、「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した人です。

 幼少時に出家し、明勝に指示し、三論を研鑽しました。その後、十数年にわたり斯学に従事するかたわら、道綽(どうしゃく)に私淑し、入門し浄土教を開きました。

 その後、長安の光明寺におて伝道に従事し、中国浄土教義を大成しました。日本に与えた影響も大きく法然は、自ら「帰依善導」と称するほどです。

 代表的な著書として「無量寿経疏(『観経疏』)」4巻があります。

(無量山傳通院寶暦参照)

 

 

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■【きょうの人】 0301 日朗と鎌倉光則寺(【カシャリ! ひとり旅】でご紹介)

2020-03-02 06:59:56 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0301 日朗と鎌倉光則寺(【カシャリ! ひとり旅】でご紹介)

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 日朗

 にちろう
 寛元3年4月8日(1245年5月5日)- 元応2年1月21日(1320年3月1日)

 鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人です。号は筑後房、大国阿闍梨とも称します。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖です。下総国の出身、父は平賀有国です。

 1261年(文応2年)日蓮を師として法を学び、1271年(文永8年)日蓮の流罪の際に、土牢に押込となりました。

 1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っています。但し、これは伝承で幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはあり得ず、誤伝である可能性が高いといわれています。

 日蓮滅後に、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、日蓮の遺言に背き勝手に持ち去っています。

 1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築きました。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立しました。鎌倉光則寺は、1274年に、日朗を開祖として創建されました。

  光則寺 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kanagawa/kanagawa-kamakura-kousokuji.htm

 1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。

 

 

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■【きょうの人】 0228 ■ 吉田茂 ■ 崇伝(以心崇伝) ■ 鎮西上人 ■ 寛空 本日ゆかりの人

2020-02-28 05:45:00 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0228 ■ 吉田茂 ■ 崇伝(以心崇伝) ■ 鎮西上人 ■ 寛空

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 吉田茂 

【Wikipedia】 吉田 茂(よしだ しげる)

 1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。

 外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、 第一復員大臣(第2代)、 第二復員大臣(第2代)、農林水産大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。 

 吉田茂というと、葉巻を加えた写真を連想する人が多いと思います。葉巻というとチャーチル、吉田のことを「和製チャーチル」と呼ぶ人もいるほどです。

 戦後の復興期の基礎を築いた代表的な政治家で、かれの政治感覚とリーダーシップは後世に語り継がれています。

 今日の日本には、リーダーシップを持った政治家が不在と言えるほど、リーダーシップがありません。リーダーシップは強すぎると独断専行と言われますが、韓国の成長を見ていると、国のトップが、時代を先読みして、先手先手で手を打っていく必要性を痛感します。
■ 崇伝(以心崇伝)

 いしんすうでん
 永禄12年(1569年)-- 寛永10年1月20日(1633年2月28日)

 安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧で、字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれます。俗姓は一色氏。

 寛永3年(1626)に後水尾天皇の師となり本光国師の称が授けられました。

 徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取りました。

 崇伝が起草した「武家諸法度」は、老中以下諸大名の前で崇伝により布告されました。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられました。

 僧侶としてだけではなく非常に優秀なブレーンとして家康をささえ、その能力に対する信頼は厚いものでした。


 自分の上司から信頼されると、実力以上の物を発揮できるビジネスパーソンが多いです。部下を使う人の能力や努力によって、部下の能力をどこまで引き出せるかが決まるようです。

 一方で、上司に評価されると周囲からのやっかみも出てくることも多いです。

 他方で、自分の能力を過信しすぎて、鼻持ちならない人間になってしまうこともあります。その様な時というのは、自分では、それに気づかないことが多いですね。


■ 鎮西上人

 ちんぜいしょうにん
 別名 弁長聖光(べんちょうせいこう)
 応保2年5月6日(1162年6月20日) - 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日)

 平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。鎮西義の祖。父は古川則茂。字は弁阿(べんな)。房号は聖光房(【Wikipedia】)

 14歳で出家し、比叡山に登り、短大集を学び、秘奥を究めたと言われています。

 後に、故郷の筑前に帰り、油山の学頭職に補せられますが、弟の死に遭遇し、無常を感じて建久8年に上洛しました。

 そこで法然に謁(まみ)え、浄土念仏の要道を聴き、専心法然に支持して浄土門に期すことになりました。

 元久元年、浄土宗の正統を伝道し、鎮西に帰り、善導寺を建立しました。


 人の「死」というのは、人間の生き方を変える契機となるほどのことなのですね。

 私事ですが、中学二年の時に祖母を亡くしました。祖母からは、「偉くなっても稲穂を忘れてはいけないよ」という言葉を始め、いろいろと教えられました。

 祖母の死に遭遇したときに、いろいろな教えをもとに生きていくということを墓前で誓ったことを鮮明に記憶しています。


■ 寛空 寂

 かんくう
 元慶8年(884年)-天禄3年2月6日(972年2月28日)
 別称: 蓮台寺僧正、香隆寺僧正
 平安時代中期の真言宗の僧で、俗姓は文室氏、出身地は京都(河内国説もある)と言われていますが、定かではないようです。

 宇多法皇の侍童をつとめた後に出家して法皇及び神日(じんにち)から法を受けました。945年(天慶8年)に権律師となり、その後、東寺長者・金剛峯寺座主・仁和寺別当・同寺法務を歴任し、964年(康保元年)僧正に至りました。

 一生涯に、孔雀経法を8回修し、その修法による霊験で知られています。 (【Wikipedia】を基に作成)

 

 

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■【きょうの人】 0227 真盛上人 戦国時代の天台宗の僧

2020-02-27 08:29:47 | 【話材】 きょうの人

■【きょうの人】 0227 真盛上人 戦国時代の天台宗の僧

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 真盛上人

 しんせい
 嘉吉3年1月28日(1443年2月27日) - 明応4年2月30日(1495年3月26日)
 諡号は円戒国師・慈摂大師

 戦国時代の天台宗の僧で、伊勢に生まれました。天台宗真盛派(現在の天台真盛宗)の宗祖です。

 一四歳で剃髪し、幼名から「眞盛」と名を改めました。

 比叡山西塔の慶秀に師事し、天台宗の教学を20余年にわたって学びました。その後、黒谷青龍寺に隠遁し、「往生要集」に拠り称名念仏を唱えました。戒律と称名念仏の一致、無欲と慈悲などを説きました。

 かつて良源や源信などが住み、円観が円頓戒の本寺としたこともある近江国坂本の西教寺を再興して、天台宗真盛派の本寺としました。

 近江・伊勢・越前を巡錫(じゅんしゃく)し、後土御門帝に円頓戒を授け「円戒国師」の号を下賜されました。また、明治天皇より「慈摂大師」の号も賜っています。

 

 

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