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■【きょうの人】 0407 法然上人誕生会 平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧

2021-04-07 08:46:00 | 【話材】 きょうの人04月

■【きょうの人】 0407 法然上人誕生会 平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 法然上人誕生会
 ほうねん  長承2年(1133年)-建暦2年(1212年)  法然は房号です。諱は源空(げんくう)、幼名は勢至丸、通称は「黒谷上人」・「吉水上人」、諡号は「慧光菩薩」・「華頂尊者」・「通明国師」・「天下上人無極道心者」・「光照大士」
 平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧で、4月7日に現代の岡山県美作で生まれました。80歳で1月25日に歿しました。
 はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、43歳の折、善導の観経疏によって開眼して浄土宗を開きました。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著述したりして、念仏を体系化しました。日本における称名念仏の元祖といえます。
 承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説きました。
 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
 浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付けています。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとしていると言っています。

【Wikipedia】 法然  法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、1175年(承安5年)、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖とあおがれた。「法然」は房号で、諱は「源空」(げんくう)。幼名を「勢至丸」[1]。通称「黒谷上人」、「吉水上人」とも。  浄土宗では、善導を「高祖」とし、法然を「元祖」と崇めている

 

 

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■【きょうの人】 0406 沼津市原の白隠祭 白隠慧鶴 

2021-04-06 08:46:00 | 【話材】 きょうの人04月

■【きょうの人】 0406 沼津市原の白隠祭 白隠慧鶴 

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 沼津市原の白隠祭 白隠慧鶴


 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師

 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 沼津市腹にある松蔭寺は、臨済宗の古寺で、約700年の歴史があります。

「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」といわれています。臨済禅中興の祖で書画の作品も多い白隠禅師の菩提寺として有名です。境内内に墓があり、県の指定史跡となっています。

 白隠は、禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 この考えは、経営コンサルタントにも通じる面と、真逆で、経営コンサルタントの場合には、自分の専門分野以外も知識習得や経験を積む必要があります。一方で、専門分野ガイの依頼においては、その道の専門家と共に仕事をすべきと考えます。

 

 

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■【きょうの人】 0405 高田屋 嘉兵衛 江戸時代後期の廻船問屋でロシアに抑留

2021-04-05 08:46:00 | 【話材】 きょうの人04月

■【きょうの人】 0405 高田屋 嘉兵衛 江戸時代後期の廻船問屋でロシアに抑留

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 高田屋 嘉兵衛 江戸時代後期の廻船問屋でロシアに抑留

 たかたや かへえ
 明和6年1月1日(1769年2月7日)-- 文政10年4月5日(1827年4月30日)

 江戸時代後期の廻船業者、海商で、ロシアに抑留されるも、ゴローニン事件を日ロ交渉の仲立ちをして解決に導く功績があります。

 淡路島で生まれ、幼名は菊弥です。兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出します。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献しました。

 ゴローニン事件とは、当時、日本の対ロシア感情は極めて悪化していたことに起因しています。

 文化8年(1811年)、ロシアの軍艦ディアナ号が千島列島の測量を行っていました。その首領がヴァーシリー・ゴローニンです。国後島の泊に入港した際、厳戒態勢下にありました国後陣屋の役人が捕えらえ、松前で幽閉した事件です。

 函館山の麓、高田屋屋敷跡を通る高田屋通(護国神社坂)のグリーンベルトに嘉平の銅像が建っています。

 

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 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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■【きょうの人】 0404 道昭 法相宗の開祖 玄奘三蔵から教えを受ける

2021-04-04 08:46:00 | 【話材】 きょうの人04月

■【きょうの人】 0404 道昭 法相宗の開祖 玄奘三蔵から教えを受ける

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ 道昭 法相宗の開祖 玄奘三蔵から教えを受ける

 どうしょう、道紹や道照とも記します。
 舒明天皇元年(629年)生まれ、- 文武天皇4年3月10日(700年4月3日)72歳没

 河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の開祖です。

 25歳の時に留学僧として唐で学び、玄奘から教えを受けました。また、慧満からは禅を学びました。8年後に日本に戻り、奈良元興寺の境内に禅院を建立しました。そこで玄奘より伝授を受けた法相宗を宣揚(起こす)しました。

 晩年は、諸国を遊行して、厚生・済民の事業に従事しました。(無量山傳通院寶暦参照)

 

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■【きょうの人】 0403 隠元隆琦 ■ 道昭 ■ 武田勝頼 インゲン豆の起こり

2021-04-03 08:46:00 | 【話材】 きょうの人04月

■【きょうの人】 0403 隠元隆琦 ■ 道昭 ■ 武田勝頼 インゲン豆の起こり

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 隠元隆琦

 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉

 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。

 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。

 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。

 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。

 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。

 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

■ 道昭

 どうしょう、道紹や道照とも記します。
 舒明天皇元年(629年)生まれ、- 文武天皇4年3月10日(700年4月3日)72歳没

 河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の開祖です。

 25歳の時に留学僧として唐で学び、玄奘から教えを受けました。また、慧満からは禅を学びました。8年後に日本に戻り、奈良元興寺の境内に禅院を建立しました。そこで玄奘より伝授を受けた法相宗を宣揚(起こす)しました。

 晩年は、諸国を遊行して、厚生・済民の事業に従事しました。(無量山傳通院寶暦参照)

■ 武田勝頼

 たけだ かつより
 天文15年(1546年)-天正10年3月11日(1582年4月3日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国(現山梨県)の戦国大名で、甲斐武田家第20代当主、通称は四郎です。

 信玄の正妻の子ではないために、性差の子供のように信玄の「信」の字を与えられず、後継者ともみなされていませんでした。当初は、高遠諏訪氏を継ぐことになり、諏訪四郎勝頼と呼ばれました。また、信濃国伊那谷の高遠城主であったことから、伊奈四郎勝頼ともいいます。

 武田信玄といえば、戦国武将を代表する一人ですが、信玄死後を引き継いだ武田勝頼の評判はあまり芳しいものではありません。

 しかし、戦国時代に詳しい歴史家の多くは、巷の評判ほど、無能ではなかったといわれています。

 信玄の死後、18城を勝ち取るなどして、初めは勝頼を軽視していた武田軍団二十四将も、次第に勝頼を理解するようになり、結束してゆきました。あの織田信長に「勝頼、侮るべからず」と言わせるほどでした。

 信玄が死の床で、勝頼に「信長・家康と闘うようなことが起こったら、自領に引き込んで闘え」と遺言したそうです。ところが、18城を勝ち取るなど、成功体験からの驕りでしょうか、設楽が原の戦いでは敵地に赴いて、信長・家康と闘うことになりました。

 信長の「三段撃ち」で有名な設楽が原は平地での合戦です。(歴史研究者の中には、三段撃ちは、実際にはなかったといわれています。)

 武田軍は、山地での戦いを強みにしていました。あまり、経験の多くない平地での戦い、銃対騎馬軍団という、新旧の戦法の差などもあり、勝頼は、武田武将の大半を失う惨敗に終わりました。これが、武田一族の滅亡に繋がるといわれています。

 勝頼の敗北、武田氏の滅亡は、騎馬軍団と勇猛な武将による成功体験に固執しすぎて、新しい時代の幕開けを読み切れなかったところにあるように、素人考えを持っています。

 

 

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■【きょうの人】 0402 ■ 高村光太郎 私の座右の銘「道程」の作者 ■ 隠元隆琦 黄檗宗の祖 インゲン豆でも知られる ■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君

2021-04-02 08:46:00 | 【話材】 きょうの人04月

【きょうの人】 0402 ■ 高村光太郎 私の座右の銘「道程」の作者 ■ 隠元隆琦 黄檗宗の祖 インゲン豆でも知られる ■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 隠元隆琦 黄檗宗の祖 インゲン豆でも知られる

 

 

 隠元隆琦(いんげん りゅうき)

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉

 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師

 勅賜として真空大師、華光大師、

 

 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。

 

 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。

 

 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。

 

 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。

 

 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。

 

 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

 

 

■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君

 

 

 うえすぎ ようざん 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)

 寛延4年7月20日(1751年9月9日)- 文政5年3月11日(1822年4月2日)

 

 

 江戸時代中期の大名で、出羽国(山形県)米沢藩9代藩主でした。上杉謙信という名門の家柄でしたが、領地返上寸前の財政難に陥っていました。その米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。諱は初め勝興、後に治憲となりますが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名です。

 

 宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎました。

 

 10代将軍徳川家治より「治憲」の名を賜り、明和4年(1767年)に家督を継ぎました。

 

 家督を継いだとき、上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積していました。

 

 初代藩主景勝は、越後で120万石時代に従えていた家臣団6千人をそのまま、石高が15万石で召しかかえました。このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったことから、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたのでした。

 

 加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃したのです。

 

 名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであったと伝えられています。

 

 藩主に就任した鷹山(治憲)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用しました。当然のことながら、先代任命の家老らと厳しく対立することになりました。

 

 江戸での仕切料(生活費)を8分の1に減額、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行ったりしました。

 

 天明の大飢饉では、東北地方を中心に餓死者が多発しましたが、鷹山(治憲)は、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励などの対策に努めました。自らも粗衣粗食でした。

 

 曾祖父による学問所を藩校・興譲館として、細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。

 

 日本を代表する君主であるだけではなく、ジョン・F・ケネディ大統領の尊敬をうるほど、海外でもその名君ぶりは知られています。

 

【カシャリ! ひとり旅】 上杉神社

 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/yamagata/yamagata-yonezawa/yamagata-yonezawa12.htm

 

 

 

■ 高村光太郎 私の座右の銘「道程」の作者

 

 

 たかむら こうたろう

 1883年(明治16年)3月13日 - 1956年(昭和31年)4月2日)

 

 

 日本の詩人・歌人・彫刻家・画家で、現在の東京都台東区東上野一丁目の出身で、本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読みます。

 

 父は、彫刻家・仏師であります高村光雲で、そのえいきょうもあるのか、光太郎も日本を代表する彫刻家です。また、画家としても、評論や随筆、短歌にも通じ、能書家としても知られています。

 

 『道程』『智恵子抄』などの詩集もあり、教科書にも多く作品が掲載されています。日本文学史上、近現代を代表する詩人の一人といえるほどです。

 

 詩集『智恵子抄』はよく知られていますが、『道程』の冒頭「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」は、この詩を初めて目にしたときに、私に啓示を与えてくれたようにさえ思えました。

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■【きょうの人】 0401 親鸞 真宗の開祖 天台宗の比叡山との関係は

2021-04-01 08:46:00 | 【話材】 きょうの人04月

■【きょうの人】 0401 親鸞 真宗の開祖 天台宗の比叡山との関係は

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 親鸞 真宗の開祖

 4月1日は、親鸞の誕生日です。

 親鸞(1173~1262)は、真宗の開祖で、善信とも綽空(しゃくくう)とも言います。9歳にして慈円に就いて出家し、その後比叡山に登り諸宗をを学びます。

 法然を訪問することから念佛門に入ることになり、法然が流罪されたときに連座して越後に行くことになりました。

 5年後に赦免され、常陸に行き、「教行信証文類」全六巻を著し、初めて浄土真宗を開きました。

【Wikipedia】 親鸞
 建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、
 「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
意訳 - 「修行者が前世の因縁によって[注釈 12]女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」
という偈句(「「女犯偈」」)に続けて、
  「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」
の告を得る。
 この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。

 

 

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