私はよく体調が悪くなる。
そういうこともあって、このまるで財布のように持ち物になってしまった私の具合の悪さと持ち主の私は、この長い付き合いの中で私もだいぶ学習した。
事前にわかるようにもなったし、何をしたらいけないのかもわかる。
痛みとは、その場所が悪くていたくなるとは限らない。
たとえ頭痛。
どんなに薬を飲んでも治らないことがある。
それはたぶん脳神経外科でもわからないこともある。
それは頭に原因がないからだ。頭痛はいわば電話の着信音。
別のところが私を呼んでいるのだ。
胃腸のときもある。貧血のときもある。肩が凝っているときもある。
「もうそれ以上無理をしないで。こんなに大変なんだから」と無理矢理知らせている。
風邪を引くときの痛み。喉が痛くなる前兆の感じ。熱が出る前の感じ。
全部合図がくる。
「ここに痛みが起こるということはもうすぐ私は熱が出る。熱が出るようなことをしただろうか」と考える。
例えば前日、いつもと違うことをしたとか。季節にあわない服を着ていたとか。
そして鍵になっている箇所が必ずあって、そこを温めたりなど先手を打つ。
そんなこんなで私は「体を温める」とか「マッサージをする」ということがこんなに人を楽にするものかと病気のたびに思う。
だから病気になるということで、私はいろいろ教わっているのだろう。
おかげで触るだけで大体わかる。誰の体でも私の体のどこかが触ればその信号が来るようになった。
最近では猫でもわかる。
職場ではよくマッサージをさせられる。でもプロではないので力の加減やコツがわからない。ただその箇所がわかるだけだ。
深さも広さもわかる。
「この場所から奥へ2センチくらいのところに何かある」と服越しでもわかる。
痛みを感じる場所を触ると、どこから来る合図かも大体わかる。
私は将来マッサージの人になったらいいんじゃないかと思うことがあるし、人にも薦められる。
針灸師にスカウトされたこともある。
たまに見ただけでわかる人もいる。
それは相手のせいかもしれない。
ただ、何となく最近こういう風になったのは もしかすると私が人を喜ばせたいと思うからそんな気持ちが働いてくれて 私に知らせているんじゃないかと思うようになった。
それなら誰だって相手を思う気持ちを大切にしたいと思っていれば、自然とその人がマッサージして欲しいところに手が行くようになるのではないだろうか。
自然と、相手が望むことを体が読むようになるんではないだろうか。
いつまでたっても人のことがわからない人は、そのテストをクリアするまで何度も病気とか誹謗とかそんな形でお題が与えられるのではないだろうか。
たまに神様は極上にすばらしい人間をさっさと天国へ連れて行く。
そんな病気はテストではなくて、神様のやきもちかもしれない。
私は死ぬとき、いくつだろう。病気かな。事故かな。恐怖を感じながらじゃなければいい。子どもに生きる希望を与える言葉をかけられる余裕があるともっといい。
母より後がいいが弟より先は嫌だ。弟は気が小さいので気落ちしている姿を見るくらいなら私が後の方がいい。
息子より先は必須。息子に私は一緒にいると実感を残せるなら私の死に様としては90%成功している。
残りはできれば元気なうちに思い出になる手紙を書いておくこと。
病気のとき、寝ていると
「神様、息子はまだ小さいので私にもう少し育てさせてください。私はこのこと一緒にいたい。きっとこんなに可愛いと思うのだから前世でこの子を産むと決めていたはず。私がいなくても支えてくれる人が現れるまで私の寿命を守って欲しい」とそんな明日もわからない人のように思うことがある。
自分が死ぬという誰でも当たり前のことを恐がっているんだ。
子どもを産んだことで。
私はそういう風になったんだ。
だから病気も怖いと思う。
自分より守る者があるということは、自分の恐怖心ではなくて守る者の苦しみや悲しみが怖くなるのだろう。
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子供も二人産んだしこんな私でもお母さんになれた。
まえは病気のことをあきらめていたけど、子供がいるからもっと頑張って生きようって思うようになったよ。
病気なんてもうとっくに怖くなくなってるけど、子供たちのことを思うと立ち向かいたいって思う。
マッキがいってる意味すごくわかる。
私は自分の子ども産んでみてまりりんがどんなにすごいかわかるようになった。
それも二人もなんてね。
それでもまりりんは私の心配ばかりしてくれる。
だからもっとすごいなあって思うよ。