ケベックリタイヤ日記

ケベックでリタイア暮らし。ながらえば憂しとみた世も今は忘れた。毎日悦びの種をみつけてぽりぽりかじりたい。

紅旗征戎

2019-03-11 16:58:28 | 読む
 紅旗征戎吾ガ事二非ズ

 有名な藤原定家の言葉を今までとは違った読み方をする。それは老いのせいだろうか。物の見方考え方は変わって行く。2011年3月11日未曽有の東北震災からすでに8年、この時期になると堀田善衛の「方丈記私記」を再読する。

 今年、ああ自分の見方が変わったなと思ったのは、人が死のうが、都が荒れようが、あちこちで血なまぐさい政争があろうが「俺のしったこっちゃない」とばかりに和歌詠みにあけくれた定家を、それは私達自身でもあると思う気持ちが芽生えたこと。貴族エスタブリッシュメントにとり一般人民など下等な生き物に過ぎなかったかもしれないが、ふと思ったのよ、世が世ならば下等人間である現代の私達庶民も「紅旗征戎吾ガ事に非ズ」ではないかと。グローバル化が進んだ時代、世界の惨事に接すること日常茶判事。悲惨な映像を横目に先進国に住む私達はそれがB級であろうとグルメにお洒落に旅行を楽しみ、又は二流貴族だった定家が出世に一喜一憂したように勤め人は宮廷に劣らぬ熾烈な出世競争に明け暮れているのではなかろうか。 

 定家に又、歌人としての矜持というか、天地がひっくりかえろうとも和歌を詠み続けるというプロ根性を垣間見るようで反骨精神を感じたりする。それは貴族とか地下人とかの階級を超える芸の道を政治をの上に置く優性を信じてる人のように見える。

 「方丈記私記」を開くたび、黄色いマーカーを塗ったいくつかのフレーズに出会う。

「人は、生きている間はひたすらに生きるためのものなのであって、死ぬために生きているのではない。なぜいったい、死が生の中軸であければならないようなふうに政治は事を運ぶのか?」

「政治は何かを利用しなければ、それ自体では役にたたぬものであろう。従って政治はあらゆるものを利用する。無常観などはその最有力な武器となりうるものである。」

明日、年2回の少しあらたまった食事会があり、アペロから始まるフレンチフルコースにありつける。少しお洒落してでかける。思う存分楽しもうと思う。人生、いつちゃらになるかもしれないし今日ある日がいつまでも続くという保証はどこにもないから。