福ちゃんの散歩道

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東京~札幌2時間半「夜行飛行機」なぜ消えた 運賃も夜行列車並み 庶民の味方だった

2020-12-10 00:10:00 | 飛行機の話題(乗り物ニュース)
戦後経済の高度成長の波に乗りつつある時代のシーンですね
バブル崩壊を迎える迄の間 当に元禄でした
良い時代でした・・・

東京~札幌2時間半「夜行飛行機」なぜ消えた 運賃も夜行列車並み 庶民の味方だった

夜行バスや夜行列車はよく聞きますが、夜行飛行機は国際線や貨物便でない限りあまり聞いたことがありません。
しかし、前回の東京オリンピックのころには国内線の夜行便は当たり前のフライトだったようです。



クーラーのない飛行機では、夏場は夜飛ぶ方が快適

「オーロラ」「ムーンライト」「ポールスター」。
名前だけだと寝台特急や夜行高速バスの名称のように思えますが、これらはれっきとした飛行機の名前です。
いまでこそ、国内線で便名に愛称を付けているのは少なくなりましたが、
かつて日本では、このような優雅な愛称を持った定期便が各地を結んでいたのです。

 しかもこの3つは飛行機の夜行便であり、終電が終わった後の深夜に日本の空を飛んでいた定期便の愛称です。
夜行列車でさえ定期運行は「サンライズ瀬戸・出雲」だけとなった今日では想像もできませんが、
これら夜行の飛行機は大変な人気だったとのこと。
いったいどのような飛行機が、どういったルートを飛んでいたのでしょう。

Douglas DC-4 JA6012. 三笠




国内線における飛行機の夜行便は、1957(昭和32)年7月、JAL(日本航空)が
東京~札幌間に運賃割引の深夜便「オーロラ」を夏季限定で開設したのが始まりです。
深夜1時に羽田を離陸、3時間後の早朝4時に千歳到着(千歳発羽田行きは30分遅れて出発)というダイヤで、
運賃は15%割引の片道9950円(当時)。機材は当時の国内線で主力だったダグラスDC-4。
与圧もクーラーもない極めてシンプルな構造でしたが、信頼性の高い4発プロペラ機でした。

まだ高速バスはなく、自家用車も高級品、庶民の交通手段は鉄道がメインという時代でした。
飛行機は政治家や会社社長、芸能人など一部のお金持ちだけしか乗れない“高嶺の花”でしたが、
そこで新規顧客を開拓しようと生まれたのが「オーロラ」だとのこと。

 当時、国鉄(現JR)の急行列車と青函連絡船を乗り継げば東京~札幌間は約3000円(当時)で済むものの、
まる1日かかる上に混雑がひどく座席の確保も大変でした。
JALは「夏の夜空を涼しい“オーロラ”で!」という宣伝を展開し、アッパーミドル以上の客層に喜ばれたようです。


夜のあいだに移動できるから大人気

「オーロラ」の好評を受け、JALは1960(昭和35)年に東京~福岡間を結ぶ「ムーンライト」も開設。
運賃はなんと30%割引とさらに安くなり、のちに大阪(伊丹)経由便も設けるほどの人気を博しました。

 1962(昭和37)年春からは「列車なみになった割引運航便」というキャッチフレーズとともに
「オーロラ」「ムーンライト」両便の運航期間を拡大。
翌1963(昭和38)年にはDC-4と同じプロペラ機ながら、
クーラーも効き客室も与圧を備えて快適なダグラスDC-6BとDC-7Cに交代します。
この2機種はもともと国際線で使われていた機材で、国際線のジェット化に伴い国内線に転用されたものでした。



DC-7C

当時は東海道新幹線が開通する前であり、東京~大阪間で比較すると、
在来線の電車特急「こだま」1等(現在のグリーン車)の場合、6時間半かかり約3900円(当時)だったのに対し、
JALの「ムーンライト」なら1時間半で4200円(当時)。
ホテル代も節約できるとあって、ビジネスマンやテレビタレントなど幅広い層から人気を集めます。
ただし夜行便として出発が遅かったため酔客が多く、昼行便とは機内の雰囲気が少し違ったようです。



JALの国内線がボーイング727とコンベア880によってすべてジェット化された1967(昭和42)年以降、
「オーロラ」と「ムーンライト」は日本国内航空(のちの東亜国内航空、現JALグループ)
のプロペラ機YS-11にバトンタッチします。

 気になる運賃も、東京~札幌間でJALやANA(全日空)のジェット機が70分で1万2900円(当時)のところ、
YS-11では2時間20分と時間はかかるものの、価格は9500円(当時)とお手頃なまま。
この割安価格が支持されたことで、
さらに札幌~東京~大阪(伊丹)を結ぶ新たな夜行便として「ポールスター」も設けられるなど、
夜行飛行機の人気は変わりませんでした。

(★昭和42年当時の大卒の初任給は23,000円前後でしょうから、現在の初任給と比較してみると
まだまだ高嶺の花・・・ですよね)

一気に消えた夜行飛行機 背景に空港と社会の変化

 しかし、このころになると空港の騒音問題が、いわゆる公害として問題視されるようになりつつありました。
実際、1969(昭和44)年以降、伊丹空港の周辺住民が夜間の飛行差し止めなどを求めて国を相手に訴訟を起こしたり、
伊丹市自身が1973(昭和48)年10月1日に「大阪国際空港撤去都市宣言」を掲げたりしています。

 このような世相を受け、1974(昭和49)年に国内線の夜行便はすべて廃止されました。
しかし、それから50年近く経ち、海上空港の整備や滑走路の沖合移設、静粛性の高い新型機の登場などにより、
いまでは羽田を始め、関空やセントレア(中部)、新千歳、那覇、北九州など各地の空港が24時間化されています。

飛行機の深夜便は、目的地の空港に着いた先の交通手段をどうするかが課題でしょう。
しかしながら、時には夜空を見上げて当時の夜行便の様子を想像するのも面白いかもしれません。

以上

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