わたしなどの年齢になると、結婚式の披露宴などにお招きを受けることは少なくなっています。
ですが、2年ほど前に親戚の披露宴に出席したことがあります。
それらの披露宴での友人たちから「お互いを理解しあって、より良い家庭を築いてください」との祝辞を頂くことがありますね。
私などは今の連れ合いとはすでに40年以上も連れあっていますので、今さら「理解」もないもんだ、と思っています。
さて、きょうの話題はその「理解」に関することです。
家庭内での生活も「社会生活」の一部とすれば、お互いを「理解すること」は必要になってきますが、それは必ずしも相手に対する「同調」ではない場合もあるという事と思うのです。
「理解=同調」が可能ならばそれが理想でしょうけれども、必ずしもそうではない時が起こり得ます。
言葉を変えれば、相手の事を「理解」できても、「同調」できないことだってあるかもしれないのです。
「理解」が出来ても「同調」しない場合や、「理解」しないままに「同調」してしまうことだって、ありうることなのかと思います。
人が「理解」を行う思惟の働きは「なぜ、人はそのような事を行うのか?」の判別に属します。
いっぽう、「同調」はそれらの思惟とは無関係に発生する人の思惟の働きです。
「同調」は花を観た時きれいと思う事や美しいと感動する思惟の働きと考えることが出来ます。
「個的な思惟の働き」が「同調」にはあると考えることが出来ます。
これは「個的な思惟」に属することなので、その働きはあくまでそ人の「自己」に属する精神活動と考えることが出来ます。
一方、「理解」には必ず「対象となる相手や事柄」が必要なのです。
一般には「理解」があれば「同調」があると捉えられがちですが、両者には思惟の働きの観点から考えると、歴然とした区別があると考えられます。
ここで身近な例を考えてみましょう。
なにかの試験を受けることとします。
設問に答えるためには、出題者が意図することが何であるのかの理解がまず必要になります。
言葉を変えれば設問に対する読解力がいる訳です。
「設問を理解」しなければ回答を出すことが出来ないのは、自明なことです。
設問者の見解が回答者の見解と異なっている場合でも、出題者の意図を正確に見抜かなければ、正しいい回答とはみなされないのです。これは「理解」の範疇に属する思惟の働きです。
次は別の場面を考えてみましょう。
自分な好きな役者さんや歌手の舞台を各地に出掛け観に行く人がおりますね。
いわゆる「追っかけ」と称される人たちです。
その人たちは、その役者さんや歌手その人を見ることで満足している事とします。
そこでは役柄の出来や歌のうまさなどは、二の次なのです。これを「同調」と呼ばれる精神の働きと考えることが出来ます。
色んな本を読んで、書かれている事を「理解」出来ても、内容に対する「同調」ができない事は、ざらにある事です。
それは現実の社会生活の中でも、実は日常的に発生している事柄なのです。
本を読んでそれを「面白かった」と思ったりすることには、それが「理解」だったのか「同調」だったのか、あるいはその両方だったかなどがあるのです。
ですが、2年ほど前に親戚の披露宴に出席したことがあります。
それらの披露宴での友人たちから「お互いを理解しあって、より良い家庭を築いてください」との祝辞を頂くことがありますね。
私などは今の連れ合いとはすでに40年以上も連れあっていますので、今さら「理解」もないもんだ、と思っています。
さて、きょうの話題はその「理解」に関することです。
家庭内での生活も「社会生活」の一部とすれば、お互いを「理解すること」は必要になってきますが、それは必ずしも相手に対する「同調」ではない場合もあるという事と思うのです。
「理解=同調」が可能ならばそれが理想でしょうけれども、必ずしもそうではない時が起こり得ます。
言葉を変えれば、相手の事を「理解」できても、「同調」できないことだってあるかもしれないのです。
「理解」が出来ても「同調」しない場合や、「理解」しないままに「同調」してしまうことだって、ありうることなのかと思います。
人が「理解」を行う思惟の働きは「なぜ、人はそのような事を行うのか?」の判別に属します。
いっぽう、「同調」はそれらの思惟とは無関係に発生する人の思惟の働きです。
「同調」は花を観た時きれいと思う事や美しいと感動する思惟の働きと考えることが出来ます。
「個的な思惟の働き」が「同調」にはあると考えることが出来ます。
これは「個的な思惟」に属することなので、その働きはあくまでそ人の「自己」に属する精神活動と考えることが出来ます。
一方、「理解」には必ず「対象となる相手や事柄」が必要なのです。
一般には「理解」があれば「同調」があると捉えられがちですが、両者には思惟の働きの観点から考えると、歴然とした区別があると考えられます。
ここで身近な例を考えてみましょう。
なにかの試験を受けることとします。
設問に答えるためには、出題者が意図することが何であるのかの理解がまず必要になります。
言葉を変えれば設問に対する読解力がいる訳です。
「設問を理解」しなければ回答を出すことが出来ないのは、自明なことです。
設問者の見解が回答者の見解と異なっている場合でも、出題者の意図を正確に見抜かなければ、正しいい回答とはみなされないのです。これは「理解」の範疇に属する思惟の働きです。
次は別の場面を考えてみましょう。
自分な好きな役者さんや歌手の舞台を各地に出掛け観に行く人がおりますね。
いわゆる「追っかけ」と称される人たちです。
その人たちは、その役者さんや歌手その人を見ることで満足している事とします。
そこでは役柄の出来や歌のうまさなどは、二の次なのです。これを「同調」と呼ばれる精神の働きと考えることが出来ます。
色んな本を読んで、書かれている事を「理解」出来ても、内容に対する「同調」ができない事は、ざらにある事です。
それは現実の社会生活の中でも、実は日常的に発生している事柄なのです。
本を読んでそれを「面白かった」と思ったりすることには、それが「理解」だったのか「同調」だったのか、あるいはその両方だったかなどがあるのです。
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