愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会が企画展「表現の不自由展・その後」を中止したことを報道により知った。名古屋市長の河村氏の発言に端を発したこの事象にはいくつかの見方があるであろう。
一つは河村氏の発言に見られるように「慰安婦を表現した少女像」(以下、少女像と記す)について展示は良くないので中止すべきであるとする立場である。その理由として展示は「日本国民の心を踏みにじる行為」であるからとされている。そしてこの展示を続けるならガソリンを持ち込むぞ、という脅迫もあり大村秀章愛知県知事は「表現の不自由展・その後」の全展示を取りやめることを決定したのである。
「表現の不自由展・その後」とはこれまで公開展示を拒否された「表現物」をあえて公開展示することに通じて、「表現の自由」の持つ意味を問うという企画であると理解することが出来る。
「表現の自由」については古くは「チャタレー夫人裁判」や大島渚監督作品の映画でも問われたことがあった。またこんな事例もあった。ある女性が自分の身体の一部を3Dプリンターで再現できるデーターを公開したことが「わいせつ物陳列罪」にあたるという裁判になったことがあった。
いずれの裁判でも「表現されたものが公序良俗に反していないか」が問われていたのだ。今回の「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由展・その後」の公開が中止されたことは行政側の「問題になる前に覆い隠してしまおう」という意図が見えてくる。
今回の少女像が公序良俗に反する表現物には見えないとわたくしには思えるのであるが今回の問題について自分なりの考えを記しておく。
すべての「表現の自由」が許されるとは限らないことはありうる。例えば一方的に何かを非難する「ヘイトスピーチ」がそれであるが私は表現行為により創り出されたものは出来るだけオープンであるべきである、という立場をとる。公序良俗や「世間の常識」は時代や状況に応じて変化してゆくものだがその時代性をも否定してはならない。LGBTなどの少数者への認知が広まっているこのご時世にたかがあの程度の少女像の展示を認めない行政の措置は時代に逆行すると言わざるをえないと考える。
ここで少し付け加えるなら少女像は「表現物」ではあるが、美術的な彫像ではない。あれは社会的なプロパガンダ物品であり、戦争中のわが国の「戦意高揚ポスター」と本質を同じくするものであるとわたくしは思っている。「戦意高揚ポスター」は歴史的記録物としての価値はあると思われるが「美術品」としてはその価値は不明である。
「表現物」は行政などの公権力により評価されるべきものではない。「表現物」への評価はそれが「どの位相から何が表現されているのか」の視点から考えられるべきであり、公的に役立つとかの視点から考えるべきではないと思います。
あの像が展示されそれを見た人々がどのようにそれを感じるのかは、観た人々の評価にゆだねるべきであったのに、その機会が失われてしまったことを残念に思うのである。74年前のきょう広島に原爆が落とされた日に、こんなことを思っている。