私は若い時にはどんなことでも数量的にとらえた方が、色んな事をより正確に理解できるとかたくなに信じていました。
例えば人の性格についてです。
よく言われることですが、あの人は性格が明るいとか、どうも奴は根暗な奴だな、などと言われることです。
これ等の場合、性格の明るさと暗さは、その人が持っている「明るさ」と「暗さの」量的な割合だと思っていたわけです。
「明るさ」を多く持つ人は「明るい人」であり、逆に「明るさ」が少なく「暗さ」を多くもつ人は「暗い人」なんだと考えた方が、人を理解するのには都合が良いのだ、と思っていたわけです。
所が、人の全体をとらえるのには、この量的な捉え方は偏った一面的な理解なのではないかと、年齢を経るにつれ思うようになりました。
また、このような例があります。
職場内でいつも明るく冗談などを言っている人が、プライベートな場では無口で物静かな人物であったりすることです。
「おしゃべり好き」が同じ人とは思えないほど寡黙な人になってしまうことなどです。
普段の生活の多くの時間を「明るいおしゃべり好きな人」で過ごしている人だって、性格はそうではなかったという事があるかもしれません。
人があまり表に出すことのないほうに、その人の人格の大事な部分があるのではないかと思うわけです。
より多くの時間と場所で現れてくる「人の性格」のみが、その人の本当の性格なんだろうかと思ってしまいます。
人の性格の根源は時間や場所の量的な多いさではないのでしょう。
実生活であっても、または小説や劇の中での物語の中であっても、人を理解するのは実に難しい事なのだと、思います。
これは歳を経て人生上の経験が多いから解るというものでもないでしょう。
正月が終わり、今年は何をしようかななどと思いながら、こんな事も思ってしまうのです。
例えば人の性格についてです。
よく言われることですが、あの人は性格が明るいとか、どうも奴は根暗な奴だな、などと言われることです。
これ等の場合、性格の明るさと暗さは、その人が持っている「明るさ」と「暗さの」量的な割合だと思っていたわけです。
「明るさ」を多く持つ人は「明るい人」であり、逆に「明るさ」が少なく「暗さ」を多くもつ人は「暗い人」なんだと考えた方が、人を理解するのには都合が良いのだ、と思っていたわけです。
所が、人の全体をとらえるのには、この量的な捉え方は偏った一面的な理解なのではないかと、年齢を経るにつれ思うようになりました。
また、このような例があります。
職場内でいつも明るく冗談などを言っている人が、プライベートな場では無口で物静かな人物であったりすることです。
「おしゃべり好き」が同じ人とは思えないほど寡黙な人になってしまうことなどです。
普段の生活の多くの時間を「明るいおしゃべり好きな人」で過ごしている人だって、性格はそうではなかったという事があるかもしれません。
人があまり表に出すことのないほうに、その人の人格の大事な部分があるのではないかと思うわけです。
より多くの時間と場所で現れてくる「人の性格」のみが、その人の本当の性格なんだろうかと思ってしまいます。
人の性格の根源は時間や場所の量的な多いさではないのでしょう。
実生活であっても、または小説や劇の中での物語の中であっても、人を理解するのは実に難しい事なのだと、思います。
これは歳を経て人生上の経験が多いから解るというものでもないでしょう。
正月が終わり、今年は何をしようかななどと思いながら、こんな事も思ってしまうのです。
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