コロナ拡散を防ぐために様々な業種で、営業の休止や時間短縮などの自粛が行政側から求められています。その自粛の協力者に対して、一つの店舗なら50万円、二つ以上なら100万円を支給すると東京都は言明しました。
これについては、「やむをえず協力する」や「その程度のお金では食ってゆけないので、協力は出来ない」などの意見が見られます。協力できない人の言い分には次のような意見が多く見られます。それは「補償金」が低すぎるというものです。
ここで「補償金」とはどのような性格のものなのかを考えてみたいと思います。
この例として。「漁業補償金」があります。これはある地域の海面を埋め立てた時、その海域に漁業権を持つ漁民に対して、漁業権の制限の代価としてそれに見合う金額を、支払うというものです。これは漁業する営業権を、国や自治体の行政政策により、制限をするので、それに見合う金額を国家や自治体が負担するのです。これの法的根拠は営業権が制限された事由が、国や自治体の行政政策に依るのが明白なので、その補償を当該組織が負担するのは妥当である、との考えにもとづいています。漁獲量の減少という結果と海面埋め立てには立証可能な因果関係が認められるからです。いわゆる「受益者負担の原則」の逆バージョンです。
さて、この度のコロナウイルスによる「営業自粛」に対するお金の支給は「休業補償」にあたるのでしょうか。東京都から営業してはならないと言われなければ、お店の営業を続けることができて、それなりの営業利益が見込まれるとすると、それへの制限は「営業権」の制限なので、減額金額に見合う補償をしてもらう事は妥当だという考えがあります。
これは一見するともっともな論理に見えます。しかし、一般の「営業権の制限」と異なっている点があります。それは国や自治体の今回の営業の自粛要請は、一般的な行政政策ではないという事です。一例を挙げてみます。内乱や他国からの侵略で被った建物の損壊などには国家はそれらの損害には「補償金」は出さないのが普通です。
もし仮にこの度のコロナウイルスの拡散に国や自治体が積極的に関与したという因果関係があるのなら、国家はその責任として「補償金」を支払う義務を負わなければならない事になるでしょうが、それを立証することは今の状況では不可能です。
ですから、この度の「補償金」とは、正確にいえば、国家や自治体からの「見舞金」と捉えるべきです。「見舞金」の金額はそれを与える側の「気持ち次第」という事になります。「見舞金」は葬儀の時に受け取る香典のようなものです。金額の多寡については受け取る側ではなにも言う事は出来ないのです。
今回の営業自粛による営業利益の減少は社会に多大の影響が出ることは明白です。補償金額がすくないので、自粛には応じられない、との意見も理解できます。
「補償金」という言葉には政府の失策による「損害補償」というイメージがあります。
コロナウイルスに対する政府の政策が「失策」であったのかを今は問わない事にして、とりあえずは「見舞金」をなるべく多くだす方策を要求する事が肝要と考えます。
「補償金を出せ」と言えば出す方は失策が問われるようで、出しにくいでしょうから、ここは「見舞金」を多くいただきたいという、下手の方策で対処するのが得策と考えます。
PS
大阪府では営業自粛をしても、それへの「補償金」は府独自では出せないと知事は言っています。東京都ほどの潤沢な財源は大阪府にはない、との事です。
もし、東京都のような補償金を出してしまうと財政崩壊に陥ってしまうからと言っているのです。これは貧窮にあえいでいる地方自治団体でも同様です。
今ここで言える確実なことは、収束が長引くとそれだけ多くの金額の支出が必要になるという事です。収束が長引くにつれ、貰える見舞金に使える原資は確実に減ってゆきます。いま、補償金が少ないから営業自粛には応じられないと考える人がいるのなら、そのひとの同業者やお仲間が将来受け取る見舞金の原資を少なくする行動をしている事になります。
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