先日は領土をお金で買った事実に少し触れました。
きょうはそれについての補足です。
アメリカは1800年代にルイジアナとアラスカを他国から購入しました。
ルイジアナは当時はフランス領だったのです。そもそもルイジアナと言われるのは「ルイにちなんだもの」と言う意味であったそうな。言うまでもなく「ルイ」とは「ルイ14世」と言われるフランス皇帝の名であるので、それにちなんで地名を決めたものであろう。
ルイジアナに住む住民はフランス系、スペイン系、それにアフリカから連れてこられた人々、そしてネイティブアメリカン(いわゆるインデアン)、イギリスから入植した移民などで構成されていました。
まさしく多民族国家だったのです。
このようなルイジアナでしたが、ナポレオンの時代にフランスは財政危機を打開するために当地をアメリカに売却したのでした。その時の売却金額は1500万ドルであったのは先日、お話した通りです。随分とと安い金額に思えますね。
さて、次はアラスカに目を転じてみましょう。アラスカは元々は帝政ロシアのものでした。ロシアがアザラシなどの毛皮や鮭などの入手の為にロシアと現地人のイヌイットとの交易のためにそこに進出したのでした。その後一定程度のロシア人の集落もできるようになっていったのです。ちょうど日本の戦前に樺太に日本人が進出していったのと同様と考えれば良いかと思います。
ところが当時のロシアは極端な財政危機の状態にあり、その打開策の一環としてアメリカにアラスカの売却を打診してきたのです。そして1867年にロシアはアラスカをアメリカ合衆国に売却しました。
前置きが長くなってしまいましたが、領土の売却という事態に伴う幾つかの問題を考察して見ましょう。
そこが無人の土地であれば土地所有者と購入者との話し合いは金額のすり合わせだけが課題となります。
その土地に住む住民も少なくそこでの産業も取るに足らないものであるならば住民と彼らの産業が被るであろう影響をさして考慮することも無いからです。
この例がアラスカでした。ごく少数のロシア人の交易者と少数民族のイヌイットがそこにはいただけなのですから。イヌイットは集団で生活を営んでいましたが、そのグループは自分たちを社会勢力として他国に認めさせるだけの力は持っておりませんでした。立場で言えばアメリカの西部開拓史に登場するインデアンのようなものです。インデアンはそれでもヨーロッパからの移住者の侵入に対しては果敢に抵抗を試みましたが、アラスカの先住民たちは争いを好まなかったのでしょうか。そしてあまりの少数者だったので、彼らの意思は共同体としての意思となることも無かったものと推察できます。
このようにしてアメリカはロシアから格安な金額とトラブルもなくアラスカを自国の領土とすることが出来たのです。
一方、ルイジアナの場合はどうだったのでしょうか。
さっきも言ったようにルイジアナには複数の人種と多数の住民が住んでいました。フランスからの移住者の中には自分たちが創ってきた町や村がアメリカのものになり自分たちはこれからどうなるんだろうと感じた人たちもいたはずです。それは他の人種の住民にも同様な不安感情はあったと思われます。
フランスからの移住者の中には本国へ引き返したものもいたと思われます。また、そこに踏みとどまって新しい国家の中での生活に活路を見出した人たちもいたでしょう。
結果的にはアメリカはルイジアナを自国領として運営することに成功するのですが、そこに至る道筋は多くの困難を伴っていたことでしょう。
さて、私が先日の空想で述べた「領土の物々交換」には、このように見てくると実に多くの解決されなければならない課題が含まれていることに気が付きます。
そこに現在住んでいる住民をどのように扱うのか、あるいは彼らが従事している産業と、彼らのそれまでの統治機構をどうするのか、などです。
とても困難な課題になることは間違いありません。ですから空想的な「思考実験」とわたくしは言いました。
話は変わりますが「世界連邦運動」と言うものがあります。地球上のすべての国家を単一の世界連邦政府とすれば国家間の争いが少なくなり、すべてが丸く収まり平和になるだろうとの考えのようです。
世界連邦と言うものが出来れば、私が空想した「領土の物々交換」も速やかに実現が出来そうですね。
でもそれも今は空想の域を出ることはないでしょう。
それまでは「地域間紛争」をどのように実現可能な方法で少なくするのかを追及してゆくしか道はないのでしょう。
きょうはそれについての補足です。
アメリカは1800年代にルイジアナとアラスカを他国から購入しました。
ルイジアナは当時はフランス領だったのです。そもそもルイジアナと言われるのは「ルイにちなんだもの」と言う意味であったそうな。言うまでもなく「ルイ」とは「ルイ14世」と言われるフランス皇帝の名であるので、それにちなんで地名を決めたものであろう。
ルイジアナに住む住民はフランス系、スペイン系、それにアフリカから連れてこられた人々、そしてネイティブアメリカン(いわゆるインデアン)、イギリスから入植した移民などで構成されていました。
まさしく多民族国家だったのです。
このようなルイジアナでしたが、ナポレオンの時代にフランスは財政危機を打開するために当地をアメリカに売却したのでした。その時の売却金額は1500万ドルであったのは先日、お話した通りです。随分とと安い金額に思えますね。
さて、次はアラスカに目を転じてみましょう。アラスカは元々は帝政ロシアのものでした。ロシアがアザラシなどの毛皮や鮭などの入手の為にロシアと現地人のイヌイットとの交易のためにそこに進出したのでした。その後一定程度のロシア人の集落もできるようになっていったのです。ちょうど日本の戦前に樺太に日本人が進出していったのと同様と考えれば良いかと思います。
ところが当時のロシアは極端な財政危機の状態にあり、その打開策の一環としてアメリカにアラスカの売却を打診してきたのです。そして1867年にロシアはアラスカをアメリカ合衆国に売却しました。
前置きが長くなってしまいましたが、領土の売却という事態に伴う幾つかの問題を考察して見ましょう。
そこが無人の土地であれば土地所有者と購入者との話し合いは金額のすり合わせだけが課題となります。
その土地に住む住民も少なくそこでの産業も取るに足らないものであるならば住民と彼らの産業が被るであろう影響をさして考慮することも無いからです。
この例がアラスカでした。ごく少数のロシア人の交易者と少数民族のイヌイットがそこにはいただけなのですから。イヌイットは集団で生活を営んでいましたが、そのグループは自分たちを社会勢力として他国に認めさせるだけの力は持っておりませんでした。立場で言えばアメリカの西部開拓史に登場するインデアンのようなものです。インデアンはそれでもヨーロッパからの移住者の侵入に対しては果敢に抵抗を試みましたが、アラスカの先住民たちは争いを好まなかったのでしょうか。そしてあまりの少数者だったので、彼らの意思は共同体としての意思となることも無かったものと推察できます。
このようにしてアメリカはロシアから格安な金額とトラブルもなくアラスカを自国の領土とすることが出来たのです。
一方、ルイジアナの場合はどうだったのでしょうか。
さっきも言ったようにルイジアナには複数の人種と多数の住民が住んでいました。フランスからの移住者の中には自分たちが創ってきた町や村がアメリカのものになり自分たちはこれからどうなるんだろうと感じた人たちもいたはずです。それは他の人種の住民にも同様な不安感情はあったと思われます。
フランスからの移住者の中には本国へ引き返したものもいたと思われます。また、そこに踏みとどまって新しい国家の中での生活に活路を見出した人たちもいたでしょう。
結果的にはアメリカはルイジアナを自国領として運営することに成功するのですが、そこに至る道筋は多くの困難を伴っていたことでしょう。
さて、私が先日の空想で述べた「領土の物々交換」には、このように見てくると実に多くの解決されなければならない課題が含まれていることに気が付きます。
そこに現在住んでいる住民をどのように扱うのか、あるいは彼らが従事している産業と、彼らのそれまでの統治機構をどうするのか、などです。
とても困難な課題になることは間違いありません。ですから空想的な「思考実験」とわたくしは言いました。
話は変わりますが「世界連邦運動」と言うものがあります。地球上のすべての国家を単一の世界連邦政府とすれば国家間の争いが少なくなり、すべてが丸く収まり平和になるだろうとの考えのようです。
世界連邦と言うものが出来れば、私が空想した「領土の物々交換」も速やかに実現が出来そうですね。
でもそれも今は空想の域を出ることはないでしょう。
それまでは「地域間紛争」をどのように実現可能な方法で少なくするのかを追及してゆくしか道はないのでしょう。
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