「愛知トリエンナーレ」展での「表現の不自由展・その後」の展示が中止されたのに関連して、今度は神戸市が主催する文化シンポジウムが中止になったという。このシンポジウムにはトリエンナーレの芸術監督、津田大介氏が出席することになっており混乱を避けるためと言うのがその理由であるとされている。
愛知県と神戸市の中止の理由の一つに「公金を使ってこのようなイベントを行う事が適正かどうか?」という意見が主催者に寄せられていると言われている。
「公金を使って・・・・」の論理は「少数者の一部の意見の表明に、公金を使うのはどうか」という事だと理解することが出来る。
きょうはこの論理の危うさを考えてみたい。
そもそも「公金」とは何だろうか。「公金」とは私的な資金ではないことは確かだ。私人がかれの所持する資金をどのように使おうが、誰からもその使い道についてとやかく言われる筋合いのものではない事は言うまでもない。
「公金をつかって」が問題にされるのは公の資金が私人の利益に使われる事が、問題とされるのである。
ここで「公金」の原資が何であるのかを考えよう。「公金」は行政や国家が自分で生み出した資金ではないという当たり前のことを私たちは忘れてはならない。
「公金」の原資は納税者が収める税金なのである。税金は社会的な階層や思想信条にかかわらず公平に課税されていることになっている。今仮に「表現の不自由展、その後」の作者たちが、納税の義務を果たしてない人たちであるならば、その人たちのために「公の資金」を使うならば、ちょっとそれは違うんじゃない、という論理は成り立つ。ですが、そんなことはあり得ない。どんな人も所得税や消費税は等しく課税されているはずである。だから、それらのことに「公金」が使われるのも、納税者の側から言えば、展示してもらう権利があることになる。
行政や国家が納税の義務の公正さを理由にこの度の二つの事案を中止したのなら、それはちょっとおかしいのではと思ってしまう。行政 は納税者の多数派に忖度をしていることになるからである。
少数者も正しく納税しているとすれば、納税されたお金が「多数者のためにだけ」に使われることは社会の公平さを損なう事になる。
今回の二つの事案を「公金の支出」の観点から考えてみた。
追伸
参考までに江戸時代の課税制度について触れておく。江戸時代の租税は人口の多くを占めていた農民に課税されていた。農民の収入に対する課税割合はお上が6で農民が4などのお上の取り分が極めて高かったことが知られている。それに比して都市部に住む一般町民(大工や小間物職人などの日銭を稼ぐ人たち)の収入は課税対象にはなっていなかった。現代の課税制度から見ると不公平な課税制度であったと言える。ところが江戸の町のインフラ整備にはこのように徴収された「公金」が使われていたのである。多数派の農民が治めた税金が少数派の都市部の町民の利益のために使われた事例と理解することが出来る。
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