ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

任侠映画の主題歌を読み替えてみる。

2018年03月16日 09時48分36秒 | 独り言
わたくしが好きな映画の事を、きょうは書こうと思います。

任侠映画の代表作と言えば、高倉健氏の「昭和残侠伝」のシリーズがあります。
その中でも、わたくしが気に入っているのが」唐獅子牡丹」です。
きょうはそこでの主題歌を任侠の世界ではない方面から読み解こうという、時代錯誤な話題なのです。

まずは其の主題歌の歌詞を見てみましょう。


1 義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ
  義理が重たい 男の世界
  幼なじみの 観音様にゃ
  俺の心は お見通し
  背中(せな)で 吠えてる
  唐獅子牡丹(からじしぼたん)

2 親の意見を 承知ですねて
  曲がりくねった 六区の風よ
  つもり重ねた 不孝のかずを
  なんと詫びよか おふくろに
  背中で泣いてる 唐獅子牡丹

3 おぼろ月でも 隅田の水に
  昔ながらの 濁らぬ光
  やがて夜明けの 来るそれまでは
  意地でささえる 夢一つ
  背中で呼んでる 唐獅子牡丹

この歌詞を次のように読み替える事で、任侠の世界とは違う世界が現れてきます。

今仮に、一番の歌詞の「義理」を「何かしらの理論や理念」と考え、「人情」を「世間での人との関係」と読み替えることにしましょう。
そして、2番の歌詞の「なんと詫びよか おふくろに」の「おふくろ」を「市民社会」と読み替えます。
3番の歌詞も同様に次のように読み替えてみます。
「昔ながらの 濁らぬ光」の「濁らぬ光」を「理念や理論」と考えて。「やがて夜明けの 来るそれまでは」の「夜明け」を「理想とする世の中」と読み替えます。

そうした時に見えてくるものは、「男の世界」は「政治行動の世界」なのです。
かって、多くの若者がそのように「意思と行動」をとった時期がありました。
今から半世紀も前の事です。

当時はこれらの「任侠映画」をよく見たものですが、社会人になってからは「唐獅子牡丹」の歌は嫌いになり歌う事も聴くことも嫌になりました。

ですが、それから50年も過ぎると「唐獅子牡丹」のメロデイと歌詞が自分の中ではすんなりと許容できる心境になっているのです。
たまに行くスナックでこのカラオケを歌う事が、最近はありますが、お店の人はそのことを不思議に思っているようです。
演歌などそれまでは歌ったことなどないわたくしが、それを唄う事が「似合わない」と思っているらしいのです。

人は経済活動などの合理的な事柄だけでは生きて行けません。
時には「人情」を感じ、「昔ながらの 濁らぬ光」を思う事も必要な事と思う次第です。








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