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八重山再訪

2011-10-28 | 地球の姿と思い出
1.珊瑚礁への憧れ
少年のころ海賊船をまねて、帆船を作り近くの池で遊んでいた。材料はすし折の側面、マストや帆桁は割り箸、船側の曲線出しはローソクの炎、船底の防水は溶かしたロー、帆は白い端切れ、すべて身近な素材を利用した。あの頃は、電気機関車やラジオも自作する時代だった。

カリブ海の珊瑚礁やインド洋を独り空想しながら、風に流される帆船を追っていた。やがて空想はエメラルドグリーンの海への憧れとなり、商船大学を出て航海士として「ほのるる丸」に乗り組んだ。当ブログ冒頭の「ほのるる丸」参照

その後も、エメラルドグリーンの海と紺碧の水平線の彼方への憧れは変わりなく、このブログになって今も続いている。

「ほのるる丸」は、欧州からの帰路、台湾の南端から最終寄港地、釜山を目指して北上した。八重山諸島からトカラ列島まで、中でも「ひょっこりひょうたん島」のような島(トカラ列島の横当島)は今も鮮明に記憶している。晴れた日は紺碧の黒潮、白い雲と小さな富士山のような無人島は、まるでお伽話の世界だった。ただし、これらは50年も昔の記憶である。

時代を現在に戻すと、2000年春から今夏まで、バンコクに至るこのルートを頻繁に行き来した。冬の強いジェット気流に乗れば、時速1,200キロを超えるスピードで台湾南端から成田まで2時間半、帰国の喜びが重なるうれしい海域だった。

すっかり馴染みになったこの海域、いつかはこの足で訪れたいと思っていたが、今その夢が実現する。

以下、写真にしたがって今回の八重山旅行を紹介する。

2.八重山再訪・・・石垣島、竹富島、西表島、波照間島、与那国島など、10の有人島と22の無人島
             を八重山諸島という。尖閣諸島(無人島)も八重山諸島の一部、住所は石垣市

(1)珊瑚礁の海

            石垣市離島ターミナル
            

石垣市離島ターミナルは、西表島や竹富島などの八重山諸島への高速船が発着する岸壁である。ホテル眼下の海の色は写真のとおり、横浜港とは比較できない。雲泥の差とはこのことだと思った。

青い海、白い航跡、にぎやかな岸壁に「元船乗り」の心が久しぶりに踊りだした。それは、「太陽に燃え上がる港・・・水平線に踊る帆柱」(A.カミュ異邦人、窪田啓作訳)を想像するこころの躍動だった。

スポーツ用の自転車を抱えて乗込む若い女性、手荷物一杯の年配の女性、団体ツアー御一行様、ダンボール箱の小荷物など、さまざまなお客や物資を乗せて朝8時から夕方6時頃まで、30分毎に高速フェリーボートが八重山諸島を行き来する。

ただし、夕方6時頃から翌朝8時までこの離島ターミナルは、発着もなく静まり返ることをここに付記しておく。

(2)石垣島一周定期観光バス
   (注)文中に(観光)とあるのは、観光バスなどのガイドさんから聞いた話を示す。

            川平湾の全景
            

上の写真は、石垣島北西部の川平(カビラ)に向う途中、観光バスの車窓から見た光景である。その昔、パナマ運河のガトゥン湖から眼下に広がるエメラルドグリーンのカリブ海と同じ光景だったので、思わずシャッターを切った。再訪を願う場所の一つである。

             石垣島川平湾の珊瑚礁
             

日本百景の一つ、川平湾を訪れた。太陽光の加減で変化する海の色は絶妙だった。岡本太郎画伯も、長期滞在にもかかわらずついにこの海の色をキャンバスに捉えることが出来なかった(観光)。当ブログ「海の色---世界の美しさ」参照

この珊瑚の海に魅せられて観光バスで訪れた翌日、ローカルバスで川平湾を再訪した。

5時間のバスツアーで、民謡が上手く博学なガイドさん(石垣島唯一人の男性ガイド)からいろいろ興味深い話を聞かせてもらった。

(3)石垣市立図書館

            石垣市立図書館
            

ガイドさんの話で八重山諸島をもっと知りたく、ホテルから歩いて5分の石垣市立図書館を訪れた。図書館は、広々とした敷地と赤瓦の立派な建物、建物自体がこの地方をよく表していた。

内部には、整った書棚とゆったりとした閲覧スペースがあった。さらに、職員の方々の親切な手助けで、効率よく欲しい資料を収集できた。

            八重山地域情報センター(石垣市立図書館)
            

館内で八重山地域情報センターを見つけたので、許可を得て撮影した。興味深い資料があふれていたが、2回の閲覧で切り上げた。

(4)八重山での雑感
初めての八重山で得た情報と昔の記憶を織り交ぜて、過去、現在、未来に対する雑感を箇条書きスタイルでここに記す。

1)八重山の明和大津波(1771) Edited by Kamewada 050123(石垣市立図書館)
明和8年(1771年)4月24日午前8時頃に、石垣島南東40キロの沖で地震(M7.4)が発生、津波が海抜85.4メートルの地点まで駆け上がった。宮古島も36メートルの津波に襲われた(観光&図書館)。

当時の八重山諸島の人口は2万9千人、その32%(9,313人、内石垣島8,335人)を失い、石垣島の40%(8,000町歩)が潮に洗われた。

この大津波の記録は古文書に記録されており、津波で打上げられた津波石(最大約700トン)やシャコ貝(1メートル以上)の島内分布図とも一致している。

2)石垣合衆国と結(ゆい)
明和大津波の後、八重山諸島は80年にわたり飢饉、疫病、マラリアがたびたび発生し、集落の消滅と外部からの移住を繰返した。ある村は宮古島からの移住者、隣の村は沖縄や九州、四国からの移住者、集落ごとに言葉と風習が異なった。このためこの島は石垣島合衆国ともいわれている(観光)。また、自然災害だけでなく人頭税にまつわる悲しい話---生まれるこどもを減らす話(観光)は、この島のつらい歴史を物語っている。

しかし、過酷な天災と圧制にもかかわらず石垣島にも日本「本土」と同じ相互扶助の風習が存在した。サトウキビの収穫や農作業、家屋の建設、かやぶき屋根の葺き替えなどにおける親族や隣近所の共同作業である。八重山地域では、この風習を「結(ゆい)」あるいは「ゆいまーる」といい、今日も健在である(観光)。なお、「まーる」は輪番を意味している。

3)おおらかな社会
大津波や台風という自然災害、人頭税という圧制、石垣島合衆国と呼ばれる特殊な社会構造、これだけの条件がそろえば、集落間の「反目」があってもいたし方がない。にもかかわらず、「結」の風習でこの島の人々は「助け合い」の方向に舵を切った。

それは、今回の観光、食事、ホテル、コンビニ、図書館などで接した人々の親切心や気遣いにあらわれていた。食事の種類と味は良く、価格も適正で楽しく過ごせた。そこには、対立や紛争とは関係のないおおらかな生活があった。

今回の旅で、世の中は人々のこころの持ち方次第でおおらかになるという事実を知り、日本もまだまだ捨てたものではないと、ある種の希望が湧いてきた。

4)国際規約
話は変わるが、この珊瑚の海域を高速フェリーボートで行き来するうちに国際法を思い出した。

1962年頃は第三次台湾海峡危機の時代、台湾近海では「ほのるる丸」の前後のデッキ(ハッチの上)に一辺10メートル前後の日章旗を広げて航行した。国籍を明示して誤爆を避ける、それは教室で学んだ戦時国際法や船舶法(国旗掲揚権)の実践編だった。

ここで注意しておくが、戦時国際法は一つの法律ではなく、戦争法や中立法、具体的には、さまざまな法規や条約(例:ジュネーブ条約=傷病者や難船者保護条約など)などで成り立っている。

また、戦時国際法に対して平時国際法がある。これは平時の国際法や規約や条約を意味する。たとえば、1890年に明文化されて以来、改正が続くヨークアントワープ規約(York-Antwerp Rules)は共同海損を処理する国際規約である。当ブログ「ことば(5)---世界共通語」参照

ここで共同海損を簡単に説明すると次のようになる。ある商船が荒天に遭遇、積荷の一部を投棄して沈没をまぬがれたとする。このとき、積荷を投棄された荷主だけが損害を被るのでなく、救われた他の荷主を含む利害関係者が損害額を分担するという取決めである。日本では、商法第3篇海商(一般に海商法と呼ぶ)に共同海損(General Average)の規定がある。日本は、万国海法会(CMI, Comite Maritime International)に加盟しているのでヨークアントワープ規約に準拠して共同海損を処理している。

ここで共同海損や「結」を云々する積りはないが、その考え方に注目する。その考え方は、利害関係者の「相応の負担」である。これは、合理的な考え方である。

ふたたび話は変わるが、台風や地震・津波のたびに、新築の家屋を失ったがローンだけが残ったという問題が起こる。そこには、家屋を失った個人と残ったローンを取立てる銀行がある。難解な二重ローン解決策では銀行の「相応な負担」が明快でない。

未曾有の天災を機に日本の生まれ変わりを望むならば、法改正にも踏み込む冷静な勇気と行動力が必要になる。そこに、業界からの献金やしがらみを超えた公正な二重ローン解決策が実現する。しかし、「金を隠した、隠さない」と金まみれの政治家にとっては、自分の首を絞めることになり兼ねず、公正かつ誰もが納得する解決策は難しい。したがって、これは懸案事項として先送りとなる。

また、50年前は不穏な海域を抜け出し、台湾の南端で北に変針すれば八重山諸島、そこには美しく穏やかな海が広がっていた。しかし時代が変わり、「何でもあり」の中国に接する尖閣諸島の周辺は不穏な海域に変化した。これも、先送りの懸案事項になる。

さらに、日本のグローバル化への対応も、今後数十年はかかると考えるが、それまで日本がもちこたえるかといった深刻な懸案事項である。

この日本国、多くの懸案事項で前途多難だが、なすべきことをなせば希望もある。しかし、なすべきことを挙げれば切りがないので、ここで一旦この種の議論を打ち切る。

今回の八重山再訪は、グローバルシステムから脱線した。次回は話を元に戻し、少し毛色の違った業務改善を紹介し、さらに先に進んでゆく。


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