神戸再訪(1)から続く。
その後:
卒業後、大阪商船の船乗り生活は4年間だった。欧州航路や東回り世界一周航路で世界の国々を見て、感ずるところがあって人生の針路を陸に向けて変更した。
1966年夏にヒューストン大学に入学、・・・中略・・・ヒューストン港に入港する級友や先輩に励まされ、船尾の日章旗に「あゝ、ここは日本の領土だ」と感激した。今でも海外で日章旗を見ると、「我が日本」との気持ちが湧いてくる。
・・・中略・・・
近年:
近年、と言ってもここ20年の話だが、1992年から1999年にかけて、アメリカの多国籍企業のシステム開発に参加した。・・・中略・・・目的は、「経営視界の改善」であり、典型的な「中央集権型」のシステムだった。このプロジェクトが終わる頃、わが身(日本)は今後どうあるべきかとの疑問が湧いてきた。
そこで、日本を知るためにアメリカから東南アジアの日系工場に目を向けた。2000年から最近まで日系工場5、6社のコンサルタントとして日本とバンコクを往復した。
安い人件費を求めて海外に進出した日本の製造業は、「郷に入りては郷に従え」との考え方で各国の工場を管理する、いわば「地方分権型」のシステムだった。日本の本社は、月々の決算報告を厳しくチェックするが、工場運営にはあまり口出しをしない姿勢だった。しかし、実際には日本本社をはじめ、各国の工場は自分のことで手一杯、他の工場に口出しする余裕がないというのが本音である。人材不足の結果である。
・・・中略・・・
海外の工場で働く日本人、とりわけ若い世代は、産業展示会や日本語のセミナーで体系的な基礎知識を得る機会も少ない。
そこで、2007年ころからソフトハウスの協力を得て、生産管理セミナーを5回シリーズ、1回4時間、年5回のペースで開催した。Pan-Pacific Hotel Bangkokのセミナー室でコーヒー付きの無料講義には、毎回3、40名の参加者があり、その内訳は製造業だけでなく業種も多彩だった。
現在:
記憶から消え失せない内にと、2009年からセミナーの内容を「生産管理の理論と実践」と題してまとめ始めた。2010年7月にCOMM BANGKOK社から日本語版、2011年6月に「生産管理の理論と実践(英語版)」をそれぞれ出版、同時に日本語版と英語版の電子書籍(PDF版)もリリースした。
今後の日本の製造業にとっては、英語は避けて通れない言語である。日系工場に働く人々に、世界に通用する生産管理用語を覚えて欲しいと、標準語(英語)も解説した。
昨今の大手企業では、日本人ばかりでなく外国人を採用するケースも増えてきた。このようなケースでは、新入社員教育は日本語版と英語版を活用できる。また、海外に進出した工場では日本人スタッフとローカルスタッフの教育にも利用できる。
・・・中略・・・
「同じことを百回言ってもタイ人は理解しない」「近代工業の経験がないタイ人に理解できる筈がない」と相手を非難しても前進はない。独り日本人スタッフだけでなく、ローカルスタッフも同じ知識を共有すれば、そこに相互理解、協調、創意工夫や「ヤル気」が生れる。国籍を問わず若い世代が、基本的な知識を体系的に学び、それを応用して大きく伸びて欲しいとの願いを込めて、日本語版と英語版を書き上げた。
・・・中略・・・
私費出版は別として、日本国内では同じ内容の日本語版と英語版を出版することは採算性の上で不可能である。しかし、バンコクのCOMM BANGKOK社はそれを実現した。バンコク伊勢丹やエンポリアム百貨店の紀伊国屋や東京堂などの書店に日本語版と英語版を並べている。COMM BANGKOK社の英断を賞賛するとともに、こころから感謝している。
遠い将来、日本企業のグローバル化が進み、日本で働くビジネスマンの人種も多様化するだろう。その頃、日本の書店でも同じ著者の日本語版と英語版のビジネス書を並べる時代になると信じている。その時代では、日本語しかできないビジネスマンやコンサルタントは第一線から淘汰されているだろう。同時に、日本の社会も大きく変化しなければならない。その社会を「住みよい社会」とするか否かは、現在の私たちの行動と国の政策で決まってくる。
繰り返すまでもないが、生き残りをかけた企業のグローバル化と英語化は加速する。航海日誌が英語だったように、日本企業の業務報告やe-mailは英語になるだろう。
さらに、政治の世界もビジネスの変化に足並みを揃えなければならない。ビジネスをバックアップすべき政治家には、通訳抜きで自分のことば(英語)で世界のリーダーたちと堂々と渡り合う能力と気魄が求められる。さもなければ、日本は世界政治の蚊帳の外、国益や領土を守ることは覚束ない。
今後:
人は6、70歳にもなると、「あゝ、年を取ってしまった」という。さらに数年後に「あの頃は若かったが、今は年を取ってしまった」という。さらに数年後にまた「あの頃は若かった」と。
では、いつが若いのか?と自問するまでもなく、「今」が一番若い時である。あなたも、私も、90歳のお婆さんも、すべての人々は「今」が一番若い。胸を張って「今」を生きる。その結果、世の中が元気になる。
元気になれば、あれもこれもしたいと欲が出る。欲が出ると、時間が足りなくなる。時間の不足を補うためには、少し長生きして時間を稼ぐ。しかし、時間があってもなかなか達成できないこともある。
私にとっては、いまだに達成できないことが多い。その一つは紳士になることである。国際法の西島先生から「君たちもいつかは紳士になりなさい」とフランス語の紳士という言葉をあの階段教室で教わった。【下の写真参照】以来、先生のお顔とこのフランス語(Homme comme il faut: 世に必要な人)が時々頭に浮かんでくる。しかし、紳士への道はまだ遠い。
人はトラブルに出会いながら生きてゆく。・・・中略・・・しかし、それでも明日に向かって生き続ける。時には、合理的に説明できない事象で命を救われることもある。それは神の警告と受け止め、身を慎み、さらに生き続ける。
幸い、次のステップでなすべきことが見え始めた。それは日本の製造業のグローバル化に少しでも役立ちたいとの願いである。微力は承知の上、あきらめずに少しずつ前進したい。Feb/2012記
以上で投稿文からの引用は終り。
かつて西島先生の講義を受けた階段教室は、下の写真のように新しい校舎に建て替えられていた。
階段教室は3階建ての校舎に替わっていた(2012/10/12)。
あの階段教室は消え去ったが、西島先生のお顔とことばは今も筆者の頭に生きている。ここは関西、明日から懐かしい琵琶湖疏水と伏見稲荷の「おもかる石」を訪れる。
京都再訪(1)に続く。