小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源19

2014年01月20日 01時08分21秒 | 哲学
倫理の起源19



 さて、「自由」の概念の使い方についても「意志」と同じことが言える。
 よく知られているように、カントは「自由」を道徳の存在根拠(人間社会で道徳が成り立つための必須条件)と考えた。しかし、ふつう自由という言葉はそういう含意で使われることはめったにない。むしろ身体の拘束や義務が強いてくる強制感や社会規範の息苦しさや生活のしがらみから解放されたときの何とも言えない実感を指すことが圧倒的に多い。
 ところでこのカントの逆説的な用法は、彼の倫理学を理解するうえで非常に重要な意味を持っているので、あっさり「そんな使い方はおかしい」と否定する前に、彼自身の言い分をじっくり聞いてみることにしよう。
『実践』のなかでカントは、「始めにわれわれに自由の概念を見つけてくれるものが道徳であ」る(道徳は自由の認識根拠)と述べたあとで、人間実践の領域では、「自由」が自然法則(人間の心理的な機制も含む)よりも必ず優位に位置すること、しかもそれが道徳的な理性に直接結びついていることを、次のように具体例を挙げて説明している。

 しかし後者(自然機制――引用者注)は少なくとも現象の説明に役立つのであるから、もし道徳的法則と実践理性とが加わり来って自由なる概念をわれわれに強いなかったならば、自由を学問に導入するという冒険を決して企てなかったであろうということである。しかしながら経験もまたわれわれのうちに前に述べた概念のこのような順序を確証するのである。或る人が自己の情欲に関して、もし愛好の対象とそれをうる機会とが出現するならば、彼はこれに対してまったく抵抗できないという場合を仮定しよう。そこでもし彼がこのような機会をうるところの家の前に、彼がその快楽を満足せしめたのちはただちに吊るされなければならない絞首台が立てられているとするならば、彼は果してその時に情欲を抑制しないであろうかどうかを彼に問え。彼がいかなる答えをなすであろうかは、長く憶測するを要しない。しかし彼の主君が、虚偽の口実をもって殺そうとする正しき人に対して不利な偽証を挙げることを、即刻の死刑の威嚇のもとに彼に命ずるとしたならば、彼は自己の生命に対する愛がいかに大きなものにしても、この愛に打ち勝ちうると思うかどうかを彼に問え。彼が実際にこのことをなすかなさないかは、おそらく確言をあえてしないであろう。しかしこれをなすことが彼に可能なことは、躊躇なく認容するに違いない。すなわち彼は、或る事をなすべしということを意識するがゆえにそれをなしうると判断し、また道徳的法則がなければ決して知られなかった自由を自己のうちに認識するのである。(『実践』第一篇・第一章・第六節)


 ごく普通の人の心理に援軍を求めた、なかなか説得力のある二つの事例である。はじめの例は、いま情欲を抑えないと殺されてしまうという経験を通して、人は、自分には情欲を抑えるだけの道徳性が備わっていることを認識できるというのである。またあとの例は、従わなければ殺すと脅迫されて偽証させられそうになったとき、それを実際に拒否できるかどうかは別として、少なくとも拒否という選択の「自由」があることだけは認識できるというのである。
 ごく普通の人でも、せっぱつまった状態であれば必ず道徳的な振る舞いとはなんであるかが呼び起されるので、その喚起を通して「自由」の認識に到達できるとされている。どんな凡庸な人でも、限界状況に接すれば、最も高邁な精神の自由を自覚する可能性をもっているということであろう。よくできた論理で、反論は不可能であるように見える。しかし、現実感覚を取り込みながら、もっと突っ込んで考えてみよう。
 結論から先に言うと、「自由」という概念全体と道徳との間には、必然的な関係はない。自由が道徳の存在根拠なのでもなければ、逆に道徳が自由の認識根拠なのでもない。
 前者について言えば、道徳律が存在するために必要なのは個人の自由ではなく、共同体の長きにわたる慣習なのである。「人を殺してはいけない」とか「他人の物を盗んではいけない」とか「嘘をつくべきではない」などの具体的な道徳律は、人間が自由であるから発生してきたのではなく、共同体がおのれの存続維持のために必要とするところから発生してきたのである。
 また、なるほど個人がせっぱつまった状況で凛として道徳的にふるまうことのうちに、「精神の自由」を実感することはたしかである。だがそれとても、なぜある選択がより道徳にかなうものであるという判断が成立するのかといえば、それは共同体が最もよしとする精神をおのれの身に引き受けるからこそであって、そのことが可能であるためには、彼はすでに共同体の精神を身体的・情緒的に学習していなければならない。
 先にカント自身が出した二つの例に即して言えば、こうなる。
 初めの例では、情欲の虜になることの先に必ず絞首台が待ち構えているというようなきわめて特殊な想定があれば、なるほどどんな人も情欲を抑えるという「道徳的」選択をするだろう。しかしそのことは別に「自由」が道徳の存在根拠であることを証明しているのではなく、単に命が惜しいという自己保存本能にもとづく知恵に根差すものに他ならない。この知恵も、それまで共同性の中で生きてきた経験から、過度を避け均衡を重んじる生き方のほうが自分の生命を維持する賢いやり方だということを学習した結果得られたものである。
 このことは、文脈からして、カント自身も理解していたようである。二つの例を出すに先立って、道徳の存在を自覚してゆく「順序」ということを言い、単なる命惜しさから情欲を抑えるはじめの例を出したのちに、「しかし」と続けているからである。初めの道徳的態度の実現は、カント流に言えば「功利的な動機」であるということになる。これはまだ真の「自由」による道徳性の自覚には至っていない。つまり、殺されることを覚悟しつつ偽証をしない選択をなしうると認識できるあとの例こそ、「自由」が道徳の存在根拠である事実が、凡庸な人にも理解されている証拠であるというのである。
 しかし、この場合も、凡庸な人がなぜ、どこからそのような理解を得て来るのかと問うならば、次のように答えるほかはなかろう。すなわち彼は、何が名誉ある気高い精神として称揚されるかということを、共同性のなかを生きる経験から学んできたのである。その名誉ある気高い精神とは、多くの同胞のために進んで自らの命を犠牲にするという行動への意志である。
 この意志は、経験から遊離したア・プリオリな「自由」のうちに存するのではなく、まさに「たとえ強いられた場合でも卑怯な真似をしてはならない」という公共体が要求する最高の精神を彼が生の経験史を通して学習し、その片鱗を内在化したところに初めて成り立つものである。そうしてこの公共体の精神はまた、永い人類史の中ではぐくまれてきたものに他ならない。
 彼は確かにこの限界状況的な設定を突き付けられて、可能性としての「選択の自由」を認識するだろうが、それは単に学習された道徳規範の存在を主観的になぞっているに過ぎない。
 このように、カントには(一般に「哲学者」には)、物事をとらえるにあたって、歴史的・経験論的・発達論的な観点が欠落しているのである。

 なるほど、カントが道徳とか道徳法則というとき、彼はこの言葉をけっして個々具体的な道徳律の意味では用いず、必ずただ形式的な「道徳性」、最高度に抽象的な「道徳的理性」一般の意味で用いている(つまり彼の言うア・プリオリな概念)。それは見事に一貫している。だからこそ、道徳法則の定言命法では「あなたの意志の格率(マキシム)が常に同時に普遍的法則に一致するように行為しなさい」「理性的存在である他人や自分を単に手段としてのみでなく、常に同時に目的として扱いなさい」とだけ言って、「これこれの道徳律を必ず守りなさい」とは絶対に言わないのである。そして何が普遍的法則(至上命令)であるかは、それぞれの人の行為のそれぞれの局面で、必ず内的に(ア・プリオリに)理解できるという考えに立っている。
 これは別にカントが具体的に指示することから逃避しているわけではない。道徳法則というものは、そういうかたちでしか絶対的な法則として成り立たないのだという、彼なりの形而上学的な思考にきちんと沿った考え方である。
 しかし、そうであればこそ、この思考様式からは、「なぜある局面では、かくかくの道徳律や義務に従うことが正しいのか」という問いに応える用意が原理的に生まれてこないことになる。
 彼の言う「自由」は、道徳法則への服従行為としての「義務」を必ず含む。しかし、いったいに普遍的法則が具体的になんであるかを規定せずに、「これは私の義務である」という感覚を抱けるであろうか。そんなことは論理的にも実態的にも不可能であろう。だが、なぜそういうことになるのか。
 これは、個人の選択の「自由」という意志のあり方を道徳の絶対の存在根拠としたところから必然的に導き出される帰結なのである。しかし理性的存在としての人間はいつも自然の傾向性から自由に、普遍的な道徳法則にかなうように行為を選択できる可能性をもっていると言っただけでは、判断の基準がいっさい与えられず、どう行為することが普遍法則にかなうことなのかいくらでも議論が可能になってしまう。
 カントは『原論』のなかで、四つの「義務」についての格率の例を挙げて、それらがいずれも普遍的法則には当てはまらないことを証明しているが、では何が普遍的法則に当てはまるのかについては、頑固に口を閉ざしている。あらゆる自然法則からの「自由」に道徳の根拠を見出そうとするカントの採っている形式論的な方法原理からすれば、当然そうなるのである。
 これに対して、共同体が歴史的に培ってきた精神的な慣習こそが具体的な選択を可能にすると言えば、一見、多様で特殊な共同体のありようのうちの一つを絶対化するか、そうでなければ多様性のすべてをそのまま認めて価値判断を停止する相対主義に落ち込んでしまうように見える。しかしじつは、その共同体の精神のもつ視野が広くなれば広くなるほど、人間の普遍への道は、地に足をつけて具体的に開かれてゆくのである。カントを批判したヘーゲルは、そのことをよく心得ていた。
 カントはあたかも「普遍的な道徳法則」なるものが具体的な規定抜きに、経験を超越した場所ではじめから存在するかのように想定している。だがそうではなく、反省や後悔やとらえ直しを繰り返す私たちの歴史の歩みのひとつひとつが、ほんの少しずつでもたがいにより良い関係を築いていこうとする志向性に針路を与えるのである。「自由」が道徳の存在根拠なのではなく、ある「慣習」によってこれまでよい(互いに好ましいと実感できる)関係が築けたが、ある「慣習」ではよい関係が築けなかったという経験と記憶と知恵こそが道徳の存在根拠なのである。
 しかもこうした歴史的・関係論的な人間認識にもとづいて道徳の存在根拠をおさえることによって、では、何がお互いに好ましいと実感できる関係の原理なのか、という次なる問いが生まれてくる。私は、正しく理解された功利主義の原理がそれに相当すると考えているが、功利主義(たぶんベンサムに代表されるような)を最も嫌って攻撃した当のカントの前にそれをぶつけても、彼が私の議論をまともに受けつけるとは思えない。なぜかと言えば、そもそもカントは「幸福」の概念を個人の自愛と結びつけてしか考えることができなかったので、そういう自己と他者との単純な二元論にもとづく痩せた人間認識に固執するような人がこの議論に耳を傾けるはずがないからである。そういうわけだから、功利主義とは何かについてはのちに論ずることにしよう。

 次に、後者の「道徳は自由の認識根拠である」という命題について述べよう。
これについては、ある限界状況のような局面に立たされて選択を余儀なくされるような場合には、たしかに道徳的態度を選択することを通して、自分が自由な存在であることを自覚できるであろう。しかし、それは、自由を認識するための一つの特殊な場合にすぎない。カントの持ち出している例は、そういう場合だけを想定しているが、このことから件の定式を導き出すことは、二つの意味で間違っている。
 一つはすでに述べたように、私たちが「自由」という概念を用いるとき(この言葉を実感するとき)、それはほとんどの場合、窮屈な法則や規範やしがらみや奴隷的拘束からの解放を味わう場合である。ところが、カントのように、そうした通常の使用にあえて逆らって、道徳や義務への服従を自律的に選択するという意味でのみこの言葉を用いるなら、それは同時に、ある至上の法則、神、最高善といった絶対的な理念の奴隷になることを意味する。これはまさにルターが『キリスト者の自由』で説いた「神の奴隷」の境地とまったく同じである。それは、人性をわきまえない童貞牧師の教条主義であろう。こういう原理主義が、人類史の中でかえって悲惨な闘争や殺戮の繰り返しに大きく加担してきたのではなかったか? 
 もう一つは、これもすでに述べたことであるが、道徳というものを、何か特別な状況において選ばれた人間によって発揮される「崇高な」「美談になるような」「理想的な」現象とみなすことがそもそもおかしい。私たちは、普通の日常生活において、勤勉に仕事をこなし、家族と共に寝食し、人を傷つけず、大過なく一日を過ごすならば、それだけでじゅうぶんに「道徳」的なのである。なぜなら、その場合私たちは、何も禁止を破らなかったし、平和を守ったし、秩序を尊重したし、他人をも自分をも不幸に陥れなかったからである。このような平和で幸せな生活を許すものは、その当人の「崇高な」道徳的理想などではありえない。それは、社会のよき慣習であり、そのような慣習を支え持続させるに足る社会や文化の安定した構造である。
 この安定した構造のただなかを生きることにおいて、人々はいちいち自覚的に「道徳法則にかなう自由な選択」などをしていない。「すべきことをした」「本当にしたいことをしている」「したくないことをさせられている」などと感じるのは、行為(ふるまい)を反省した時の自己意識の証言にほかならず、日常的な行為(ふるまい)は、もっと何気なく行われており、それでいて、ちゃんと道徳にかなっているのである。
 このように道徳というものを考えるとき、道徳は「自由」を認識(自覚)させる根拠としてあるのではなく、むしろ平穏でしあわせな毎日を存続させる根拠としてあるのである。道徳が「自由」の認識根拠となるのは、まさにあれかこれかを自覚的に選択すべき岐路に立たされるようなごく限られた場合だけである。