小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源21

2014年02月08日 17時34分09秒 | 哲学
倫理の起源21


  エピクロス

 次に、カントの道徳論では、「よい」という言葉の概念を徳(善)と幸福(快)との二分法のもとにのみとらえており、他の「よい」もありうるという点に考えが及んでいない点について述べる。
『実践』第一篇・第二章のはじめのほうに、次のような興味深い記述がある。

「善の見地のもとにないならば我々はなにものをも求めない、悪の見地のもとにないならばわれわれはなにものをも斥けない」(引用者注――原文ラテン語)という言葉は学校における古くからの公式である。この公式はしばしば正当に使用されるが、しかし哲学にとってはまたしばしば極めて不利に使用されるものである。なぜならば善ならびに悪なることばが曖昧だからである。これは言語の不完全に由来するものであって、このために以上のことばは二重の意味に解され、したがって実践的法則を必然的に曖昧にするのである。そうして哲学はこれらのことばの使用に際して同一語における概念の異別を感知するが、しかしそれに対して格別特殊なことばを発見しえないところから、後になって衆人の一致することのできないような微妙な区別を余儀なくされるのである。つまりこのような区別が、適当なことばによって直接に表明されえなかったためである。(中略)
 ドイツ語は幸いにしてこの区別をみのがせないことばを持っている。ラテン人が唯一の善(bonum)なることばをもって命名したものに対し、ドイツ語は二個の甚だ異なった概念と同様に異なったことばとを持っている。すなわちそれはbonumに対する(das Güte)と幸福(das Wohl)、(malum)に対する(das Böse)と(das Übel) あるいは不幸(das Weh)とである。こうしてわれわれが一行為についてそれのあるいはドイツ語の不幸(禍)とを考察するとき、それは二つのまったく異なった判定を表わすのである。故に前に述べた心理的命題は、「われわれはわれわれの不幸に関してのほかなにものをも欲求しない」と訳されるならば、少なくともなお甚だ不確実たるを免れないが、これに反して「われわれは理性の指示に従って、それを善あるいは悪と思う限りにおいてのほかはなにものをも意欲しない」と訳されるならば、それはまったく確実にして同時にきわめて明瞭に表現されるのである。


 ラテン系の「よい」bonumが道徳的な「善」の意味と幸福感をあらわす「快」の意味とをあいまいに含みこんでいるのに対し、ドイツ語では両者をはっきりと区別するから、例の決まり文句におけるbonumという語をdas Güte(善)の意味だけに用いれば、哲学的な議論の混乱が避けられるというのである。
 ここにはすでに、カントが「よい」について考えるのに、何を価値観として優位に立てているかが明瞭にあらわれている。これは倫理学を打ち立てようとするそもそものはじめから、不公平な態度ではないか? なぜなら、bonumが「善」の意味と「快」の意味の両方を含んでいるなら、それは人々が生活の中でそのようにこの言葉を使い続けてきた(文脈に応じて使い分けてきた)長い歴史の重みをあらわしているのであって、その重みを無視して、道徳的な意味でだけ「よい」という言葉を使えというのは、思想家として公正な態度とは言えないからである。カントは、人間世界のあり方を包括的に見通した上で人倫の原理を見出そうとする姿勢をはじめから放棄している。
 加えて、もっと重要な問題は、カントが「よい」という言葉のうちに、互いに対立して譲らない「徳」と「福」、「善」と「快」との二元的な要素をしか見ていないという点である。
 私たちがある物事に関して「よい」とか「いい」とか形容するとき、それは道徳的な「善」か、幸福感を実感している「快」か、どちらか二つの意味しか持たないだろうか? いま試みに、とてもこの二つのどちらかには分類できないと思える例を日本語でいくつか挙げてみよう。

①「ここからの景色はなかなかいいね」
②「今季はよい成績を修めることができました」
③「いい文章を書くのはなかなか難しい」
④「人間世界のあり方をよく見つめる必要がある」
⑤「育ちがいいとやっぱり気品があるね」
⑥「そのときの君の判断はなかなかよかったね」

 以下、いくらでも可能だが、これらはそれぞれ、①「美しい」②「優れている」③「人の心に響く」④「鋭く幅広く深い」⑤「恵まれている、身分が高貴である」⑥「時宜にかなっている」などの意味で「よい(いい)」が使われている。いかにこの言葉が多様な用法をもっているかの見本のようなものであろう。そしてそれは同時に、いかにこの言葉の抽象レベルが高いかをもあらわしていよう。
 しかしこのように多様な「よい(いい)」の用法をただ列挙しただけでは、カントが固執している二元的な図式の偏狭さを根本的に打ち破るにはまだ不足している。①③⑥などは、無理に解釈すれば、またそれが使われた文脈しだいでは、「善」か「快」かのどちらかに分類することも不可能ではないからだ。
 そこでカントの哲学的な論理の土俵につきあうために、これらの多様な「よい(いい)」の抽象レベルをもう少し上げて、より単純な形で整理してみよう。
すると、カントの徳福二元論には何が決定的に欠けているかが明らかとなる。
 カントは「よい(いい)」の概念の基本的な内包に関して何を見落しているのか?
 それは、「優」という概念である。特に②④⑤の場合などは、この概念を導入しなければ、なぜ「よい(いい)」と表現できるのが理解できない。
」「(幸)」「」、反対に「」「不快(不幸)」「」──私は、この三つの基本概念と、それら相互の重なり合いとによって「よい(いい)」という言葉が構成されていると考える。「よい・悪い」という言葉から「優劣」という概念を取り去ってしまったら、もうそれだけで倫理問題(人間問題、人倫問題)を考える基礎からして不十分である(論として「よくない」すなわち「劣」である)。

(*注:この話をある思慮深い知人にした折に、「よい・悪い」には、「適切・不適切」というのもあるのではないか、という示唆をいただいた。なるほど、右の⑥の場合などはまさにそれに当たるであろう。傾聴に値する指摘だが、これについては私も考えてみた。その結果、次のように思い至った。
「適切・不適切」というのは、ある意味で、ただ「よい・悪い」というのと同じほど抽象度が高く、たとえば「道徳的に良いことをしたから適切である」「気持ちがよくなり満足したので適切だった」「優れた成績なので合格させるに適している」というふうに汎用できる。そこで、これを「よい・悪い」を構成する分析概念のひとつとして他の三つから別立てにするのは、いささか論理的に煩雑に過ぎるのではないかと考えた。)


 さて、炯眼の読者はすでにお気づきと思うが、「優劣」の概念を「よい・悪い」に加えるべきだというここでの提案は、ニーチェの影響を受けたものである。ニーチェは、「よい・悪い」から「優劣」の概念を追い出してしまった考え方こそは、自分たち弱者のルサンチマンを合法化したキリスト教道徳のひねこびた知恵であると喝破した。彼ほどこの「歴史的捏造」を徹底的に攻撃した思想家はいない。この「歴史的捏造」なるものが果たしてキリスト教独特のものであるのかどうかについては議論の分かれるところだろうが、キリスト教的な環境以外に直接に他の精神文明を味わったことのないニーチェにとっては、キリスト教が秘めている欺瞞がすなわちそのまま「道徳」そのものの欺瞞を意味していた。ちなみに彼はプロテスタント牧師の息子である。プラトニズム以前のギリシャ世界への彼のあこがれは、おそらくこの精神的な父親殺しの無意識の情念のリアクションであろう。
 彼は『道徳の系譜』のなかで、まるで先に引用した「よい」についてのカントの言語論的な言及に呼応するかのように、次のような意味の、鋭い反論を対置している。
 もともと「よい」(gut)という判断は、「よいこと」を示される人々の側から生じるのではない。高貴な人々、強力な人々、行為の人々、高邁な人々が自分たち自身および自分たちの行為を「よい」と感じ、第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、的なものに対置したのだ。貴族的起源の「わるい(schlecht)」は単に「よい」の付録であり、補色である。これに対して、奴隷的起源の「悪い(böse)」は、ルサンチマンに基づく。その対象は貴族道徳における「よい者」つまりにとっては「悪い者」である。貴族道徳における「よいとわるい」、奴隷道徳における「善と悪」の二対の対立した価値は、幾千年の間闘いをつづけている。ローマ対ユダヤ、ルネサンス対宗教改革、ナポレオン対フランス革命----
 ここで持ち出されているschlechtというドイツ語は、böse(道徳的に悪い)ともübel(不快な)とも違って「出来の悪い、下手な、劣った、病気の」といった意味合いである。
 ニーチェ自身についてはのちに詳しく論じるが、ここで論及されている「よい・悪い」についての言語的な起源と、のちの歴史におけるその転倒過程についての指摘は、実証的な意味において正しいか間違っているかが問題なのではない。「よい・悪い」の概念を道徳的な意味の「善悪」にだけ限定させようとする(まさにカント的な)道徳至上主義を、別の価値概念の媒介によって相対化しようとする、その思想的態度こそが鮮烈なのだ。
 カントにとっては、道徳的な「善悪」と、個人の感情や運命としての「快・不快」「幸・不幸」との二元的な対立関係だけが問題であり、前者が後者に優先する(価値として高い)ことをひたすら主張すればよかった。だがそれは何ら「証明」ではなく、ニーチェの先の指摘のとおり、どこまで行ってもただの「信仰告白」である。それをあたかも「証明」であるかのように見せているのは、「理性批判」という近代的な叙述の形式によるのである。
 そこで、繰り返しになるが、見落としてはならないのは、カントの倫理学には人間存在をそのあらゆる特性から総体としてつかむ人間学的な視点が前提とされていないという点である。これはただ、徳と福、善と快とを非妥協的な対立命題として立てて人間をとらえるという単純素朴な方法から帰結する必然的な欠陥なのだ。
 なお彼は、この非妥協的な対立関係が、前者の絶対的な優位さえ承認されるなら、必ずしも両立不可能ではないことを、次のように論じている。

(前略)最高善の概念には私自身の幸福もともに含まれているにしても、しかし最高善を促進するように指示されるところの意志の規定根拠となるものは、幸福ではなくて道徳的法則である(それどころか道徳的法則は、幸福を追求しようとする私の無制限の要求を厳格な制約によって制限するのである)。
 それ故にまた道徳は本来、いかにしてわれわれはわれわれを幸福になすべきかという教えではなくて、いかにしてわれわれは幸福に値するようにならなければならないかという教えである。(中略)
 人が或る事物あるいは或る状態を所有するに値するのは、これを所有していることが最高善と一致するときのことである。今やわれわれはおよそ値するということは道徳的行為に関係するということを容易に看破しうる。この行為は、最高善の概念において他のもの(中略)すなわち幸福に与かることの条件を構成するからである。さてこのことから当然生じてくることは、人は道徳そのものを幸福説として、すなわち幸福に与かることの指示として決して取り扱ってはならないということである
。(『実践』第二編・第二章・三)

 これを読むと、カントがいかに徹底して、最高善のために道徳律を遵守すること、道徳的態度を貫くことが結果的に(道徳的であるがゆえに)人を幸福に導くことはあっても、けっして道徳が幸福のためにあるのではないと考えていたかがよくわかる。だがもちろんこんな人間理解は、途方もなく現実離れしている。
 およそ道徳だけでなく科学も宗教も芸術も、人間が作り出してきた文化的アイテムは、その目指すところは「幸福」という一点にかかっている。もっとも、科学者や宗教家や芸術家本人たちの主体的情熱のありかが人類の幸福を意図しているかどうかはまったく疑わしいし、またそれらの成果が幸福を生み出してきたかどうかもはなはだ疑問である。しかしなぜ人類がそのような文化的営みに踏み込もうとするのかという基本的な動機が、「こうした方がよい(みんなにとって仕合せな)のではないか」というところに置かれていることは明らかであろう。
 その点で、互いに立場は違っても、カントが条件づきで退けているストア派もエピクロス派もカントほど間違ってはいなかった。とはいえ、「幸福」という概念ほど哲学が扱いにくい概念はなく、後述するように、カント自身もその個体主義的な人間把握によって、この概念をただ「自愛」の概念に直結させるという根本的な誤りを犯している。
 たとえば上の引用でカントは、「われわれはおよそ値するということは道徳的行為に関係するということを容易に看破しうる」と述べているが、なんという教条主義的断定だろうか。この断定の狭隘さは、先に指摘した「よい・悪い」という価値概念についての徳福二元論のやせた窮屈な構図からまっすぐつながっている。
 もちろん「容易に看破しうる」ことであるが、値するという概念には、さまざまな質の異なる価値が参加している。美しい音楽は感動に「値する」し、学問の優れた業績は学位授与に「値する」し、強健で立派な体はスポーツ選手や兵士などの職業に「値する」し、若い魅力的な女性の裸体は男性の性的興奮を呼び起こすに「値する」。これらはどれも道徳的態度とは何の関係もない。しかもこれらの価値はみな、それ自身において、提供する側と受け取る側との両方にとっての「幸福」の行方に深く関与している。カントの決めつけは、「よい・悪い」の概念から「優劣」の概念を引き去ってしまったために起きた視線欠落なのである。
 カントはここで、道徳的であることだけが、まさにそのことによって幸福に結びつくと強弁しているが、残念ながら世の中はそんなふうにできていないのである。伝統的なキリスト教道徳を近代の啓蒙的理想主義で変奏してみせたカントは、たとえばヨブ記のような神義論的テーマ(悪人が栄え、何の罪も犯していない人が苦しむようなこの世の不条理な現実を、神はどのように解決してくださるのかというテーマ)についてどう考えていたのであろうか。彼自身にぜひ聞いてみたいものである。


*さらにカント批判を続けます。