小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源22

2014年02月19日 16時21分24秒 | 哲学
倫理の起源22





 以上みてきたように、カントは「徳」と「福」との原理的な不一致に固執した上で前者の価値の絶対的な優位を説いているが、いま挙げたような道徳に直接かかわらない価値がいくつも存在するという問題とは別に、次のような洞察もまた重要である。
 それは、私たちの生活の現実の中には「善」と「快」、「徳」と「福」とは、事実上一致している場合が非常に多いという点である。両者はけっしていつもぶつかり合うわけではないのだ。
 たとえば、困っている人を助けると相手が喜ぶのはもちろん、自分もいい気持になる。我を通さずに譲る気持ちをもつと、自分のなかに余裕のある心が確認できて満足感を抱く。
 これはなぜだろうか。
 エゴイズムだけの観点からこの現象を分析すれば、自分が優位に立てたからだとか、相手に感謝されることが自分の価値を高め、自己愛を満たすように感じられるからだといった指摘以上に出ることはないだろう。だがこれは間違いとは言えないにしても、同義反復の思考停止というべきである。
 なぜ優位に立てると感じたり、自己愛が満たされるのか?
 それはひとえに、共同体の人倫が「よい」として認め、勧めていることを実行したので、自分が共同体のメンバーであることが実感できたからである。人と通じ合えたことがうれしいのである。他から孤立した純粋な「自己愛」というようなものはあり得ない。この場合の「自己」とは、自己を振り返る自己であり、その振り返りの作用そのものの中に、すでに他者(共同性)のまなざしが組み込まれている。ナルキッソスでさえ、他者のまなざしの象徴としての「みずかがみ」を必要としたのである。
 またたとえば、母親がかわいい子どもを深い愛情(これは別に無条件に「善」であるわけではない)をもって育てることに幸福感を見出し、その実践が、そのまま子どもの人格を立派なものにすることにつながる。
 持続する夫婦愛は、人間の性愛感情の乱脈さをなだめるので、社会秩序を維持する基盤となるし、友情に伴う幸福と充実の感情が結束を生み出し、正義にかなった行動を促進させることもある。
 さらに、本当の商売繁盛を目指す精神のなかには、自分の提供する品によって客に喜んでもらうことを心から願う気持ちが不可欠のものとして含まれている。この気持ちがなく、ただ儲けることの快だけを追求してもかえってうまくいかないというのは、ほとんどの成功した実業家が口にすることである。
 同じように、いい品を作ろうと魂を込める職人の努力とその欲求がかなった時の満足感(快)とは、それを使う他の人たちの満足(すなわち職人にとっての善)にそのまま重なり合っている等々。
 カントは道徳的な善と幸福とを原理が異なるものとして切り離し、前者を幸福実現の「手段」と考えることを絶対的に拒否するために、こういう現実面にあえて目をふさいでいるのである。
 さて、彼は、なぜこれほど徳と福との不一致の原則にこだわるのだろうか。
 この疑問は簡単に解ける。次の引用を見よう。

 確かにわれわれの幸と不幸とはわれわれの実践理性の判定においてきわめて重大な意義を有するものである。
もしわれわれの幸福が、理性のとくに要求するように、一時的の感覚によってではなく、この偶然事がわれわれの全存在ならびにこの存在に対する満足に対して有する影響如何によって判定されるとするならば、感覚的存在者としてのわれわれの本性に関する限りにおいて、われわれの幸福は唯一の重要事であろう。けれどもそれのみが絶対的に唯一の重要事なのではない。人間は、感性界に属する限りにおいて、要求をもつところの存在者である。そしてその限りにおいて彼の理性は感性の要求を顧慮し、かつ実践的格率を現世的生活の幸福に関して、またできるなら未来の生活のそれに関しても樹立するように、感性の側からの拒みにくい委託を受けている。けれども人間は、理性が断固として言うところの一切事に対して無頓着であったりまた理性をば感性的存在者としての彼の要求を満足せしめる道具としてのみ用いるほどひどい動物的存在ではないのである。もし理性が人間に対して、本能が動物にあってつとめると同じことをなすためにのみ役立つべきものならば、彼が理性を有するということは、価値において彼を単なる動物性以上に少しも高めはしないからである。もしそうだとすれば理性は、自然が人間により高い目的を与えることなくしてただ動物に与えたと同一の目的を与えるために用いた特殊の方法に過ぎないであろう。もちろん人間は、とにかく彼に対してつくられたこのような自然的体制に従って彼の幸不幸を常に考慮するために理性を必要とする。けれども彼はそのほかにより高い使用のためにも理性を有するのである。すなわちそれ自体善でありあるいは悪であるところのもの──これについては純粋な、感性にまったく左右されない理性のみが判断しうるのであるが、──をも考量するのみならず、この判定と彼の判定(引用者注――幸福実現のための実践理性の判定)とを全然区別して、この判定を前の判定の最高の制約とするために、理性を有するのである。
(『実践』「実践理性の分析論・第二章」

 引用部前半では、理性が幸福追求のために使われることを部分的には容認して、いかにも寛容さを示しているかのように読める。しかし、読み違えてはならない。カントが本当に言いたいことは、引用部終末の「すなわち」以下数行にある。
 これでわかるように、カントは人間の理性のはたらきが、単に幸福追求の知恵として与えられているのではなく、また「それ自体として善もしくは悪である」ものを正しく判定するために与えられているだけなのでもない、さらに進んで道徳的な善悪の判定そのものによって幸福追求の判定を絶対的に制限してしまうところにこそ、その本来のはたらきがあるのだと力説している。つまり理性の本領は、ただ道徳的価値の実現にのみあるのではなく、幸福追求のために知恵をはたらかせるその力が独り歩きしないように抑え込んでしまうところにあると言っているのである。
 言うまでもなく、こういう考え方は、人間の理性は、ただ動物の本能と同じように感覚に奉仕するものであってはならず、幸福追求を目的として用いられてもならず、ただ善悪の判断のためにだけ用いられてもならず、これらの理性の働きそれ自身を統制するいっそう高い使命をもっているという道徳観が基礎になっている。きわめて抑圧的な道徳至上主義である。
 このロジックの背景にあるのは、幸福=感覚的満足=動物にも共通するより低い価値しか持たないもの、道徳=理性の行使=人間にのみ可能なより高い価値をもつものという、単純きわまる図式的な断定である。
 もう少し言うと、ここでイメージされている「幸福」とはあくまで主観的レベルにとどまる「よきもの」の概念であり、これに対して「道徳」は、あくまで客観的な視点を確保した上での「よきもの」の概念ということになろう。
 なんという単純な図式的断定だろうか! しかし、この単純な図式こそが、じつにプラトン以来の西洋哲学の核心部分を二千年以上にわたって支配してきた当のものなのだ。なぜ西洋の哲学史は、かくも執拗に感性、感覚、感情、情緒、欲望などの概念を、より低いもの、主観に限定されたものとして見下し、これに対して感覚界を超えたイデア、主観的関心に惑わされない知性、欲望に支配されない理性、快楽追求におぼれない道徳性、日常性に堕落しない本来的な自己、などの概念を、ほとんど痙攣的と形容したくなるほど、懸命になって打ち立てようとしてきたのか。
 すでに本稿でしつこく扱ったように、はじめに、物事の抽象へ抽象へと向かう力学をもっている言語の特性を巧みに利用したプラトンの壮大な詐欺があったのである。その詐欺は、見事に西洋の哲学界を長く支配する力を示した。それは要するに、公的な秩序を維持するためであった。つまり自分たちが抑えきれずに駆り立てられてきた強い欲望(特に情欲)を何とかコントロールして克服したいという隠れた動機が彼らのうちに共通に存在したからに他ならない。
 しかし、ここにこそ、西洋哲学の欺瞞の根っこがある。なぜなら、哲学とは、「学の学」として、あらゆる偏見から自由に、普遍的な真理を追究するという体裁を伴っているのに、じつはその体裁の陰で、初めから「感覚=低いもの、理性=高いもの」という価値審級を当然のこととして密輸入しているからである。
 なぜ感覚や情緒が「より低いもの」であると断定できるのか。この問いに西洋哲学はきちんと答えたことがあっただろうか。それはニーチェが登場してこの欺瞞を暴くまではほとんどなかったといってよい。わずかにデカルトが認識論の範囲内で、感覚は誤りやすいという例を示しているくらいなものだが、それとても大いに批判の余地がある(大森荘蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫参照)。つまり、西洋哲学は、長い間、自分の本懐とするところとは裏腹に、もともとカントに代表されるような「道徳的(宗教的)拘束」の鎖につながれていたのである。
 この欺瞞はまた、感覚や情緒をパッシヴ(受け身的)なものとしてとらえる西洋の言語的慣習のなかによく象徴されている。パッションは受苦であり受動であると同時に、情熱でもあるのだという。この矛盾した言語的把握を私たちは素直に受け取れるだろうか。
おそらく彼らの言語的慣習のもとでは、つぎのようなロジックがはたらいてきたのだと考えられる。
 その強さ激しさにおいて、情緒や情動や情欲は、抑えがたく内から沸き起こる「情熱」的なものと考えざるを得ないが、それを、自分たちを構成する欠くことのできない要素と認めてしまっては、公共の秩序を維持することができない。そこで、それらは外からやってくるものとしてその責任を「より価値の低い」他者(たとえば対象化された動物的な自然や、女の誘惑)に押しつけなければならなかった。
 聖書の創世記では、まず蛇が女であるイヴをそそのかし、イヴが男アダムをそそのかすという順序になっている。理性の代表者を僭称してきた男たちは、自分の欲望を、自分を構成する要素として肯定せずに克服の対象とみなし、初めからその原因や責任を外部になすりつけたのだ。誘惑と戦って禁欲を貫こうとする修道院の童貞僧侶たちの滑稽な姿が目に浮かんでくる。カントの道徳論は、まさにその近代ヴァージョンである。
 日本思想や仏教でもそれは同じではないかといわれるかもしれない。しかし日本古来の思想は、よく知られるように、自然を自分にとって外的な客体として対象化する感性とは無縁である。
 たとえば優れた短歌の自然詠によくあらわされているように、景物の描写が同時に主情の表現にもなり得ている。また神道の精神は、自然を、生活に直結した親しいものではあるがしかし時には暴威を振るって生活を根こそぎにするものとしてとらえる。それゆえ伝統的な日本人の感覚では、自然は常に、その姿のままに畏怖尊敬すべきものである。
 ここには、そもそも欲望を肯定するか否定するかといったような過度な倫理的選択の問題は発生する余地がない。内部と外部とは明瞭に区別されず、情緒は逆らいえない流れ、自分もそこに乗っているものとして受け止められる。これは、公共的秩序への関心がもともと薄いことと表裏をなしていて、政治的統制術があまり得意ではなく、そういうものが必要なときには、外来の思想を借りてきたのである。だらしないと言えばだらしないのだが、少なくともここには西洋哲学的な欺瞞を創出する必然性がない。学としての倫理学が発達しなかったゆえんでもある。
 また、仏教にも修行僧はおり、彼らは選ばれた者たちとして厳しい戒律を守ることを強いられはした。しかしもともと仏教では、欲望を、この世にあるかぎりはけっして逃れられない「煩悩」としてとらえるので、それは必ずしも、すべての衆生にとって克服しなくてはならない主題ではないのである。ユダヤ教やキリスト教(カトリック)のように、割礼や懺悔告解や聖体拝受のような慣習が一般大衆の生活に根づいたことはなかった。
 伝統的な西洋哲学における感覚、肉体、情緒、感情、欲望への骨がらみの蔑視は、人間や自然のあらゆる事象を公平に取り上げて真剣に考える哲学や倫理学本来のあるべき姿をたいへん歪めたというべきである。それは、超越的な一者への帰依をひたすら勧めるという意味で、現実に対する一種のニヒリズムを含んでいる。カントの倫理学はその極みといっても過言ではない。
 いったい、これらのアイテムがただ社会的人格の完成の邪魔になるとか、公共性を養わせなくさせる危険があるという教育上の理由だけで、あるがままにそのあり方を受け止めて探求しようとする哲学の心を捨ててもよいものだろうか?
 私は人間の身体性や情緒性を哲学的な探求の標的としてとらえることは、倫理学的にも重要な意味をもつと考えている。しかし、その場合にそれらを、プラトンやカントのように倫理学を成り立たせるための否定的な媒介とみなすのではなく、共同存在・人倫存在としての人間の本質構造を担うものとしてとらえるべきだと思うのである。なぜならば人間の身体性や情緒性は、一見そう見えるように、ある個体に固有な閉じられたものとしてあるのではなく、もともと共同性をかたちづくる本質的な要件だからである。
 このことは、芸術への共通の感動、おいしい(まずい)食事はほぼ誰にとってもおいしい(まずい)と感じられ、しかもどのようにおいしい(まずい)かについて細かな点まで言葉で共有できる事実、親しい者どうしの無言の気持ちの通じ合い、表情や身振りの模倣可能性やその意味の直感的な共通理解、ある感情の集団的発生と伝播などを思い浮かべるとわかりやすい(身体や情緒についての私自身の言及については、『エロス身体論』平凡社新書、『人はなぜ働かなくてはならないのか』洋泉社新書、『日本の七大思想家』幻冬舎新書・四章などを参照)。


*次回でカント批判に区切りをつけ、その次からニーチェを論じます。